・・・ですから遠藤はこれを見ると、さては計略が露顕したかと思わず胸を躍らせました。が、妙子は相変らず目蓋一つ動かさず、嘲笑うように答えるのです。「お前も死に時が近づいたな。おれの声がお前には人間の声に聞えるのか。おれの声は低くとも、天上に燃え・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・泰さんは場所が場所だけに、さては通り魔でもしたのかと思ったそうですが、慌てて後を振返ると、今まで夕日の中に立っていた新蔵の姿が見えません。と、二度びっくりする暇もなく、泰さんの袂にすがったのは、その神下しの婆の娘で、それが息をはずませながら・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・そこで娘は目がさめるとすぐにこれこれこうこうと母親に話しましたので、さては猿沢の池の竜が夢枕に立ったのだと、たちまちまたそれが町中の大評判になったではございませんか。こうなると話にも尾鰭がついて、やれあすこの稚児にも竜が憑いて歌を詠んだの、・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・目を見交したばかりで、かねて算した通り、一先ず姿を隠したが、心の闇より暗かった押入の中が、こう物色の出来得るは、さては目が馴れたせいであろう。 立花は、座敷を番頭の立去ったまで、半時ばかりを五六時間、待飽倦んでいるのであった。(まず・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ さあ、其処へ、となると、早や背後から追立てられるように、そわそわするのを、なりたけ自分で落着いて、悠々と歩行き出したが、取って三十という年紀の、渠の胸の騒ぎよう。さては今の時の暢気さは、この浪が立とうとする用意に、フイと静まった海らし・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 七十ばかりな主の翁は若き男女のために、自分がこの地を銃猟禁制地に許可を得し事柄や、池の歴史、さては鴨猟の事など話し聞かせた。その中には面白き話もあった。「水鳥のたぐいにも操というものがあると見えまして、雌なり雄なりが一つとられます・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・――さては貴様らは俺に鶏を食べさすまいとして、わざと徴発して来なかったのだな」 という言葉の終らぬ内に、例の「痰壺の掃除」乃至「祭りの太鼓打ち」がはじまり、下手すると半殺しの目に会わされるだろうということと、全く同じことを意味するのであ・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・ さては十銭芸者でも買う積りやな」「十銭……? 十銭何だ?」「十銭芸者……。文士のくせに……」知らないのかという。「やはり十銭漫才や十銭寿司の類なの?」 帰るといったものの暫らく歩けそうになかったし、マダムへの好奇心も全く消・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 廊下を通う婢を呼び止めて、唄の主は誰と聞けば、顔を見て異しく笑う。さては大方美しき人なるべし。何者と重ねて問えば、私は存じませぬとばかり、はや岡焼きの色を見せて、溜室の方へと走り行きぬ。定めて朋輩の誰彼に、それと噂の種なるべし。客は微・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ なんぞ知らん、この家は青楼の一で、今女に導かれてはいった座敷は海に臨んだ一間、欄によれば港内はもちろん入り江の奥、野の末、さては西なる海の果てまでも見渡されるのである。しかし座敷は六畳敷の、畳も古び、見るからしてあまり立派な室ではなか・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
出典:青空文庫