・・・斜子の羽織の胴裏が絵甲斐機じゃア郡役所の書記か小学校の先生染みていて、待合入りをする旦那の估券に触る。思切って緞子か繻珍に換え給え、」(その頃羽二重はマダ流行というと、「緞子か繻珍?――そりゃア華族様の事ッた、」と頗る不平な顔をして取合わな・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ かるが故にわれは今なお牧場、森林、山岳を愛す、緑地の上、窮天の間、耳目の触るる所の者を愛す、これらはみなわが最純なる思想の錨、わが心わが霊及びわが徳性の乳母、導者、衛士たり。 ああわが最愛の友よ(妹ドラ嬢を指、汝今われと共にこの清・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・十日ばかりも居る積じゃったが癪に触ることばかりだったから三日居て出立て了った。今も話しているところじゃが東京に居る故国の者は皆なだめだぞ、碌な奴は一匹も居らんぞ!」 校長は全然何のことだか、煙に捲かれて了って言うべき言葉が出ない、ただ富・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・外套のポッケットに差し入れし手先に触るる物あるをかれは堅く握りて眼を閉じつ。 この時犬高くほえしかば、急ぎて路に出で口笛鋭く吹きつつ大股に歩みて野の方に向かい、おりおり空を仰ぎては眉をひそめぬ。空は雲の脚はやく、絶え間絶え間には蒼空の高・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・「癪に障るからなあ、――一寸ましな娘はみんなモグラの奴が引っかけて行っちまいやがるんだ。」大西は窓から眼をはなさなかった。「あいつらが偽札を掴ましてるんが、露助に分らんのかな。」「俺等にゃ、その掴ます偽札も有りゃしないや。」・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・如何にも其様な悪びれた小汚い物を暫時にせよ被ていたのが癇に触るので、其物に感謝の代りに怒喝を加えて抛棄てて気を宜くしたのであろう。もっとも初から捨てさせるつもりで何処ぞで呉れ、捨てるつもりで被て来たには相違無いわびしいものであった。 少・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・そうしてじいっとして坐っていて落ち着き払って、黙っているのが癪に障るわ。今の月が上弦だろうが下弦だろうが、今夜がクリスマスだろうが、新年だろうが、外の人間が為合せだろうが、不為合せだろうが構わないという風でいるのね。人を可哀いとも思わなけれ・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・床の間の、見事な石の置き物は、富士山の形であって、人は、ただ遠くから讃歎の声を掛けてくださるだけで、どうやら、これは、たべるものでも、触るものでもないようでございます。富士山の置き物は、ひとり、どんなに寒くて苦しいか、誰もごぞんじないのです・・・ 太宰治 「古典風」
・・・かえって私のほうが、腫物にでも触るような、冷や冷やした気持で聞いてみた。「そうです。そうです。」すこし尖った口調で答えて、二度も三度も首肯した。「家が建つのだそうですね。いつごろ建つの?」「もう、間も無く建ちますよ。立派な、お屋・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・暑中休暇がすんであたふたと上京したら、馬場の海賊熱はいよいよあがっていて、やがて私にもそのまま感染し、ふたり寄ると触ると Le Pirate についての、はなやかな空想を、いやいや、具体的なプランについて語り合ったのである。春と夏と秋と冬と・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
出典:青空文庫