・・・唯ちょっと肚の中に算盤をとることを覚えたからである。 又 わたしはどんなに愛していた女とでも一時間以上話しているのは退窟だった。 又 わたしは度たびうそをついた。が、文字にする時は兎に角、わたしの口ず・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・ 桃太郎は咄嗟に算盤を取った。「一つはやられぬ。半分やろう。」 犬はしばらく強情に、「一つ下さい」を繰り返した。しかし桃太郎は何といっても「半分やろう」を撤回しない。こうなればあらゆる商売のように、所詮持たぬものは持ったものの意・・・ 芥川竜之介 「桃太郎」
・・・のみならずしまいには彼の前へ軍服の尻を向けたまま、いつまでも算盤を弾いていた。「主計官。」 保吉はしばらく待たされた後、懇願するようにこう云った。主計官は肩越しにこちらを向いた。その唇には明らかに「直です」と云う言葉が出かかっていた・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・新蔵は礼と一しょに承知の旨を答えると、早速電話を切りましたが、さあそれから日の暮までが、待遠しいの、待遠しくないのじゃありません。算盤を弾く。帳合いを手伝う。中元の進物の差図をする。――その合間には、じれったそうな顔をして、帳場格子の上にあ・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・監督が算盤を取りあげて計算をしようと申し出ても、かまいつけずに自分で大きな数を幾度も計算しなおした。父の癖として、このように一心不乱になると、きわめて簡単な理屈がどうしてもわからないと思われるようなことがあった。監督が小言を言われながら幾度・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ お民は聞いて、火鉢のふちに、算盤を弾くように、指を反らして、「謹さん、もっとですよ。八月十日の新聞までに、八人だったわ。」 と仰いで目を細うして言った。幼い時から、記憶の鋭い婦人である。「じゃ、九人になる処だった。貴女の内・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・が、少からず愛惜の念を生じたのは、おなじ麹町だが、土手三番町に住った頃であった。春も深く、やがて梅雨も近かった。……庭に柿の老樹が一株。遣放しに手入れをしないから、根まわり雑草の生えた飛石の上を、ちょこちょことよりは、ふよふよと雀が一羽、羽・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・膝で豆算盤五寸ぐらいなのを、ぱちぱちと鳴らしながら、結立ての大円髷、水の垂りそうな、赤い手絡の、容色もまんざらでない女房を引附けているのがある。 時節もので、めりやすの襯衣、めちゃめちゃの大安売、ふらんねる切地の見切物、浜から輸出品の羽・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 帳場に居た亭主が、算盤を押遣って「これ、お洗足を。それ御案内を。」 とちやほや、貴公子に対する待遇。服装もお聞きの通り、それさえ、汗に染み、埃に塗れた、草鞋穿の旅人には、過ぎた扱いをいたしまする。この温泉場は、泊からわずか四五・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 椿岳の米三郎は早くから絵事に志ざした風流人であって、算盤を弾いて身代を肥やす商売人肌ではなかった。初めから長袖を志望して、ドウいうわけだか神主になる意でいたのが兄貴の世話で淡島屋の婿養子となったのだ。であるから、金が自由になると忽ちお・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
出典:青空文庫