・・・当時の文章教育というのは古文の摸倣であって、山陽が項羽本紀を数百遍反覆して一章一句を尽く暗記したというような教訓が根深く頭に染込んでいて、この根深い因襲を根本から剿絶する事が容易でなかった。二葉亭も根が漢学育ちで魏叔子や壮悔堂を毎日繰返し、・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ 年の暮の一儲けをたくらんで簡単に狸算用になってしまったかと聴けば、さすがに気の毒だったが、しかし老訓導は急に早口の声を弾ませて、「――しかし行ってみるもんでがすな、つまりその、金巾は駄目でがしたが、別口の耳寄りな話ががしてな、光が・・・ 織田作之助 「世相」
・・・後世の史家頼山陽のごときは、「北条氏の事我れ之を云ふに忍びず」と筆を投じて憤りを示したほどであったが、当時は順逆乱れ、国民の自覚奮わず、世はおしなべて権勢と物益とに阿付し、追随しつつあった。荘園の争奪と、地頭の横暴とが最も顕著な時代相の徴候・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・といった頼山陽の言は彼のすなおな告白であったに相違ない。 つとめて書を読み、しかもそれが他人の生と労作からの所産であって、自分のそれは別になければならぬことを自覚し、他人の生にあずかり、その寄与をすなおに受けつつ、しかも自らの目をもって・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・どこで算用が違たやら」「ようい、よい」と野袴の一人が囃す。 横の馬小屋を覗いてみたが、中に馬はいなかった。馬小屋のはずれから、道の片側を無花果の木が長く続いている。自分はその影を踏んで行く。両方は一段低くなった麦畠である。お仙の歌は・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・安政元年十一月四日五日六日にわたる地震には東海、東山、北陸、山陽、山陰、南海、西海諸道ことごとく震動し、災害地帯はあるいは続きあるいは断えてはまた続いてこれらの諸道に分布し、至るところの沿岸には恐ろしい津波が押し寄せ、震水火による死者三千数・・・ 寺田寅彦 「時事雑感」
・・・しかし翰の持出したものは、唖々子の持出した『通鑑』や『名所図会』、またわたしの持出した『群書類従』、『史記評林』、山陽の『外史』『政記』のたぐいとは異って、皆珍書であったそうである。先哲諸家の手写した抄本の中には容易に得がたいものもあったと・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・なるほど一つ一つの花にはそう思えばそうというような小さな茶いろの算用数字みたいなものが書いてありました。「ミーロ、いくらだい。」「一千二百五十六かな、いや一万七千五十八かなあ。」「ぼくのは三千四百二十……六だよ。」「そんなに・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・ グーモンへ着いた時には、落ちかかると早い日が山容を濃く近く見せはじめた。朝夕の霜で末枯れはじめたいら草の小径をのぼってゆくと、茶色の石を脚の高さ二米ばかりの巨大な横長テーブルのような形に支えた建造物がある。近づいてこの厚い覆いを見れば・・・ 宮本百合子 「女靴の跡」
・・・ もとより、めのこ算用で、部分品の全部がくみ合わさった状態における人間を考えたり、それを描いたりすることは、現代の複雑な社会機構の中では不可能である。けれども、それぞれの部分品が、部分品であるだけに、その機能の総和においては全体として存・・・ 宮本百合子 「「下じき」の問題」
出典:青空文庫