・・・大丈夫、ざあざあ洗って洗いぬいた上、もう私が三杯ばかりお毒見が済んでいますから。ああ、そんなに引かぶって、襟が冷くありませんか、手拭をあげましょう。」「一滴だってこぼすものかね、ああ助かった。――いや、この上欲しければ、今度は自分で歩行・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・湯気のふきでている裸にざあッと水が降りかかって、ピチピチと弾みきった肢態が妖しく顫えながら、すくッと立った。官能がうずくのだった。何度も浴びた。「五へんも六ぺんも水かけまんねん。ええ気持やわ」と、後年夫の軽部に言ったら、若い軽部は顔をしかめ・・・ 織田作之助 「雨」
・・・七円五十銭の家賃の主人なんざあ、主人にしたところが見事な主人じゃない。主人中の属官なるものだあね。主人になるなら勅任主人か少なくとも奏任主人にならなくっちゃ愉快はないさ。ただ下宿の時分より面倒が殖えるばかりだ」と深くも考えずに浮気の不平だけ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ぎっぎっと豆を臼で挽く音がする。ざあざあと豆腐の水を易える音がする」「君の家は全体どこにある訳だね」「僕のうちは、つまり、そんな音が聞える所にあるのさ」「だから、どこにある訳だね」「すぐ傍さ」「豆腐屋の向か、隣りかい」・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・俺なんざあ、三十年も銅や岩ばっかり噛って来たが、それでも歯が一本も欠けねえ」「岩は、俺たちの米のおまんまだ」 と云う程、慣れ切った仕事であったのに、それでもその一瞬間は、たとい夏であっても体のどこかに、寒さに似たものを感じるのであっ・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・けれども虫がしんしん鳴き時々鳥が百疋も一かたまりになってざあと通るばかり、一向人も来ないようでしたからだんだん私たちは恐くなくなってはんのきの下の萱をがさがさわけて初茸をさがしはじめました。いつものようにたくさん見附かりましたから私はいつか・・・ 宮沢賢治 「二人の役人」
・・・お嬢さんなざあ、御しゃらくして毎日毎日遊んで居なされる身分さ。 婆さんは、私の家に、金のなる木があって、私は不死の生をさずかって居るとでも思って居る様な口調で、スラスラと「何のこれしきの事」と云う調子で云う。「ほんにそうだの・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・「膝なんざあ濡れても好い。馬装に膝掛なんというものはない。外の人は持っておっても、己はいらない。」「へへへへ。それでは野木さんのお流儀で。」「己がいらないのだ。野木閣下の事はどうか知らん。」「へえ。」 その後は別当も敢て・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・僕はモウ先から孤になってたんだそうでお袋なんかはちっとも覚えがないんですから、僕の子供心に思うことなんざあ、聞てくれる人はなかったんですが、奥さま斗りには、なんでも好なことがいえたんです、「いいからどんなことでもかまわずお話し」と仰しゃるも・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫