・・・ 或人は、電車で神田神保町のとおりを走っているところへ、がたがたと来て、電車はどかんととまる、びっくりしてとび下りると同時に、片がわの雑貨店の洋館がずしんと目のまえにたおれる、そちこちで、はりさけるような女のさけび声がする、それから先は・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・集されて、やっと帰ってみると家は綺麗に焼かれて、女房は留守中に生れた男の子と一緒に千葉県の女房の実家に避難していて、東京に呼び戻したくても住む家が無い、という現状ですからね、やむを得ず僕ひとり、そこの雑貨店の奥の三畳間を借りて自炊生活ですよ・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・この土地の船乗りの中には二、三百トンくらいの帆船に雑貨を積んで南洋へ貿易に出掛けるのが沢山いるという話であった。浜辺へ出て遠い沖の彼方に土堤のように連なる積雲を眺めながら、あの雲の下をどこまでも南へ南へ乗出して行くといつかはニューギニアか濠・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・向きの雑貨のほかに、一九三三年の東京の銀座にあると同じような新しいものもあるのである。書店の棚にはギリシア語やヘブライ語の辞書までも見いだされる。聖書の講義もあればギャング小説もある。 郵便局の横町にナンキン町がある。店にいて往来人をじ・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・のあらしのために、わが国の人の心に自然なあらゆるものが根こぎにされて、そのかわりにペンキ塗りの思想や蝋細工のイズムが、新開地の雑貨店や小料理屋のように雑然と無格好に打ち建てられている最中に、それほどとも思われぬ天然の風景がほうぼうで保存せら・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・従ってそういう淋しい村の雑貨店でも、神田本郷の店屋と全く同様な反応しか得られなかった。 だんだんに意外と当惑の心持が増すにつれて私は、東京という処は案外に不便な処だという気がして来た。 もし万一の自然の災害か、あるいは人間の故障、例・・・ 寺田寅彦 「石油ランプ」
・・・薄汚い裏町のようなところの雑貨店の軒にロシア文字の看板が掛かっていたりした。そうした町を歩いている時に何とも知れぬ不思議な匂いがした。何の匂いだろうと考えたがついに解らなかったことを思い出す。そうしてその匂いがロシアの東洋艦隊というものと何・・・ 寺田寅彦 「二つの正月」
・・・ 往来へ出て見ると、そこのラジオ屋、かしこの雑貨店の店先には道ゆく人がめいめいの用事を忘れて立ち止まり寄り集まって粗製拡声器の美しからぬ騒音に聞きほれている。それが彼には全くなんの意味もない風か波の音にしか聞こえないのである。小店員は自・・・ 寺田寅彦 「野球時代」
・・・そこは床屋とか洗濯屋とかパン屋とか雑貨店などのある町筋であった。中には宏大な門構えの屋敷も目についた。はるか上にある六甲つづきの山の姿が、ぼんやり曇んだ空に透けてみえた。「ここは山の手ですか」私は話題がないので、そんなことを訊いてみた。・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ 商店の中で、シャツ、ヱプロンを吊した雑貨店、煎餅屋、おもちゃ屋、下駄屋。その中でも殊に灯のあかるいせいでもあるか、薬屋の店が幾軒もあるように思われた。 忽ち電車線路の踏切があって、それを越すと、車掌が、「劇場前」と呼ぶので、わたく・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
出典:青空文庫