・・・吾人は貞淑なる夫人のために満腔の同情を表すると共に、賢明なる三菱当事者のために夫人の便宜を考慮するに吝かならざらんことを切望するものなり。……」 しかし少くとも常子だけは半年ばかりたった後、この誤解に安んずることの出来ぬある新事実に遭遇・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ もし又首肯せざらん乎、――君の一たび抛下すれば、槓でも棒でも動かざるは既に僕の知る所なり。僕亦何すれぞ首肯を強いんや。僕亦何すれぞ首肯を強いんや。 因に云う。小説家久保田万太郎君の俳人傘雨宗匠たるは天下の周知する所なり。僕、曩日久保田・・・ 芥川竜之介 「久保田万太郎氏」
・・・思わず身をすり寄せて、素足のままのフランシスの爪先きに手を触れると、フランシスは静かに足を引きすざらせながら、いたわるように祝福するように、彼女の頭に軽く手を置いて間遠につぶやき始めた。小雨の雨垂れのようにその言葉は、清く、小さく鋭く、クラ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ はッと俯向き、両方へ、前後に肩を分けたけれども、ざらりと外套の袖の揺れたるのみ。 かっと逆上せて、堪らずぬっくり突立ったが、南無三物音が、とぎょッとした。 あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、寂莫として、ただ夫人のもの・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・またあらざらん事を、われらは願う。観聞志もし過ちたらんには不都合なり、王勃が謂う所などはどうでもよし、心すべき事ならずや。 近頃心して人に問う、甲冑堂の花あやめ、あわれに、今も咲けるとぞ。 唐土の昔、咸寧の吏、韓伯が子某と、王蘊が子・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・自然たらざらんと欲しても、畢竟、自然に趣くもので、自分をいつわることはできぬものです。文品の高い、低いにかゝわらず、はじめより自己をいつわらぬ自然の表現は、その文章を読む時に快いものであり、面白味を覚えるものです。自己をいつわった文章という・・・ 小川未明 「読むうちに思ったこと」
・・・当時、溝の側から貝塚まで乗せて三十六銭が相場で、九十銭くれれば高野山まで走る俥夫もざらにいた。 しかし、間もなく朦朧俥夫の取締規則が出来て、溝の側の溜場にも屡しばしばお手入れがあってみると、さすがに丹造も居たたまれず、暫らくまごまごした・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
小は大道易者から大はイエスキリストに到るまで予言者の数はまことに多いが、稀代の予言狂乃至予言魔といえば、そうざらにいるわけではない。まず日本でいえば大本教の出口王仁三郎などは、少数の予言狂、予言魔のうちの一人であろう。 まこと・・・ 織田作之助 「終戦前後」
・・・われ、こしかた行く末を語らば二夜を重ぬとも尽きざらん、行く末は神知りたもう、ただ昨日を今日の物語となすべし、泣くも笑うもたれをはばからんや。 二郎、早く早く貞二、と叫びてまた快く笑い、こしかたは夢のみ、夢を語るに泣くは愚かなり。われ、と・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ それでも文公は頭を押えたまま黙っていると、まもなく白馬一本と野菜の煮つけを少しばかり載せた小ざら一つが文公の前に置かれた。この時やっと頭を上げて、「親方どうも済まない。」と弱い声で言ってまたも咳をしてホッとため息をついた。長おもて・・・ 国木田独歩 「窮死」
出典:青空文庫