・・・下女は驚いて覚えず壁際まで跡しざりをした。「奥さんにそう云ってくれ。お手紙には及びません。どうぞお構い下さらないようにとそう云ってくれ。」こう言い放ってオオビュルナンは客間を出た。脚本なら「退場」と括弧の中に書くところである。最も普通の俳優・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・その歌左に人にかさかしたりけるに久しうかへさざりければ、わらはしてとりにやりけるにもたせやりたる山吹のみの一つだに無き宿はかさも二つはもたぬなりけり その貧乏さ加減、我らにも覚えのあることなり。ひた土に筵・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・それから川岸を下って朝日橋を渡って砂利になった広い河原へ出てみんなで鉄鎚でいろいろな岩石の標本を集めた。河原からはもうかげろうがゆらゆら立って向うの水などは何だか風のように見えた。河原で分れて二時頃うちへ帰った。そして晩まで垣根を結って・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ただその大部分がその上に積った洪積の赤砂利や※す。」私が挨拶しましたらその人は少しきまり悪そうに笑って、「なあに、おうちの生徒さんぐらい大きな方ならあぶないこともないのですが一寸来てみたところです。」と云うのでした。なるほど私たちの中で・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・ 「あなたはホモイさまでござりますか。こんど貝の火がお前さまに参られましたそうで実に祝着に存じまする。あの玉がこの前獣の方に参りましてからもう千二百年たっていると申しまする。いや、実に私めも今朝そのおはなしを承わりまして、涙を流してござ・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・余は暫く信子氏と相遭はざりき。而して今日偶彼女と遭ひて、余の心の中には嘗て彼女に対して経験せざりし恐しき、されど甘き感情満ちぬ。彼女の一瞥一語は余の心を躍らしむ。余は彼女の面前にありて一種深奥なる悲哀を感ず。彼女のすべては余に美しく見ゆ。余・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・ひっそり砂利を敷きつめた野天に立つ告知板の黒文字 しらおか 寂しい駅前の光景が柔かく私の心を押した。「白岡ですよ」 婆さんは袋と洋傘とを今度は一ツずつ左右の手に掴み、周章てて席を出たが、振り返り、「あの、私の降りるのここでござん・・・ 宮本百合子 「一隅」
・・・そこでは、桜の葉が散っている門内の小砂利の上でお附の女中を対手に水兵服の児が三輪車を乗り廻していた。 一太は早く大きくなって、玉子も独りで売りに出たいと思った。母親が待っていると、一太は行った先で遊んでいることも出来なかったし、道草も食・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・そのわしを見つけたチゅうのは全体たれのこッてござりますべエ。』『馬具匠のマランダン。』 そこで老人確かに覚えがある、わかった、真っ赤になって怒った。『おやッ! 彼奴がわしを見たッて、あの悪党が。彼奴はわしが、そらここにこの糸を拾・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・「長十郎お願いがござりまする」「なんじゃ」「ご病気はいかにもご重体のようにはお見受け申しまするが、神仏の加護良薬の功験で、一日も早うご全快遊ばすようにと、祈願いたしておりまする。それでも万一と申すことがござりまする。もしものこと・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫