・・・本尊だに右の如くなれば、この小堂の破損はいう迄もなし、ようように縁にあがり見るに、内に仏とてもなく、唯婦人の甲冑して長刀を持ちたる木像二つを安置せり。 これ、佐藤継信忠信兄弟の妻、二人都にて討死せしのち、その母の泣悲しむがいとしさに・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・めった、人の目につかんでしゅから、山根の潮の差引きに、隠れたり、出たりして、凸凹凸凹凸凹と、累って敷く礁を削り廻しに、漁師が、天然の生簀、生船がまえにして、魚を貯えて置くでしゅが、鯛も鰈も、梅雨じけで見えんでしゅ。……掬い残りの小こい鰯子が・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・重箱を持参で茣蓙に毛氈を敷くのだから、いずれも身ぎれいに装った。中に、襟垢のついた見すぼらしい、母のない児の手を、娘さん――そのひとは、厭わしげもなく、親しく曳いて坂を上ったのである。衣の香に包まれて、藤紫の雲の裡に、何も見えぬ。冷いが、時・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・下も水のごとく、尾花の波が白く敷く。刈残した粟の穂の黄色なのと段々になって、立蔽う青い霧に浮いていた。 と見向いた時、畦の嫁菜を褄にして、その掛稲の此方に、目も遥な野原刈田を背にして間が離れて確とは見えぬが、薄藍の浅葱の襟して、髪の艶か・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・よろず屋の店と、生垣との間、逕をあまして、あとすべて未だ耕さざる水田一面、水草を敷く。紫雲英の花あちこち、菜の花こぼれ咲く。逕をめぐり垣に添いて、次第に奥深き処、孟宗の竹藪と、槻の大樹あり。この蔭より山道をのぼる。狭き土間、貧しき卓子に・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・多くは一向其趣味を解せぬ所から、能くも考えずに頭から茶の湯などいうことは、堂々たる男子のすることでないかの如くに考えているらしい、歴史上の話や、茶器の類などを見せられても、今日の社会問題と関係なきものの如くに思って居る、欧米あたりから持・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・当り前ならば、尋ねる友人の家に著いたのであるから、やれ嬉しやと安心すべき筈だに、おかしく胸に不安の波が騒いで、此家に来たことを今更悔いる心持がするは、自分ながら訳が解らなかった。しかし此の際咄嗟に起った此の不安の感情を解釈する余裕は固よりな・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・大小の敵弾は矢ッ張り雨の如く降っとった。その間を平気で進んで来たものがあるやないか? たッた独りやに「沈着にせい、沈着にせい」と云うて命令しとる様な様子が何やらおかしい思われた。演習に行てもあないに落ち付いておられん。人並みとは違た様子や。・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ お君というその姪、すなわち、そこの娘も、年は十六だが、叔母に似た性質で、――客の前へ出ては内気で、無愛嬌だが、――とんまな両親のしていることがもどかしくッて、もどかしくッてたまらないという風に、自分が用のない時は、火鉢の前に坐って、目・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・私店けし入軽焼の義は世上一流被為有御座候通疱瘡はしか諸病症いみもの決して無御座候に付享和三亥年はしか流行の節は御用込合順番札にて差上候儀は全く無類和かに製し上候故御先々様にてかるかるやきまたは水の泡の如く口中にて消候ゆゑあはかるやきかつ私家・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
出典:青空文庫