・・・「どっちから、ペスが、歩いてきたか、知っている?」と正ちゃんは、政ちゃんに、たずねました。「市場の方から、歩いてきた。」「そのとき、ほかの子は、ペス、ペス、と呼ばなかったの。」と達ちゃんがききました。「呼んだとも、健ちゃんも・・・ 小川未明 「ペスをさがしに」
・・・彼等は、この辛苦の生産品を市場にまで送らなければならないのです。 都会人のある者は、彼等の辛苦について、労働については、あまり考えないで、安いとか、高いとかいって、商人の手から買い、安いければ、安いで無考えに消費するまでのことです。・・・ 小川未明 「街を行くまゝに感ず」
・・・ 坂を降りて北へ折れると、市場で、日覆を屋根の下にたぐり寄せた生臭い匂いのする軒先で、もう店をしもうたらしい若者が、猿股一つの裸に鈍い軒灯の光をあびながら将棋をしていましたが、浜子を見ると、どこ行きでンねンと声を掛けました。すると、浜子・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・お君がこっそり山谷に会わないだろうかと心配して、市場へ行くのにもあとを尾行た。なお、自分でも情けないことだが、何かにつけてお君の機嫌をとるのだった。安二郎もどうやら痩せてきた。貸金の取りたてに走り廻っている留守中、お君が山谷に会っているかも・・・ 織田作之助 「雨」
・・・京都で一番賑かな四条通、河原町通の商店の資本は、敗戦後たいてい大阪商人から出ているという話である。 最近、四条河原町附近の土地を、五百万円の新円で買い取った大阪の商人がいるという。 焼けても、さすがに大阪だったのだ。――という眼でみ・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・ といって、いたずらに驚いておれば、もはや今日の大阪の闇市場を語る資格がない。 一個百二十円の栗饅頭を売っている大阪の闇市場だ。十二円にしてはやすすぎると思って、買おうとしたら、一個百二十円だときかされて、胆をつぶしたという人がいる・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・後年私は、新聞紙上で、軍人や官吏が栄転するたびに、大正何年組または昭和何年組の秀才で、その組のトップを切って栄進したという紹介記事を読んで、かつての同級生の愚鈍な顔を思い出さぬ例しは一度もないくらいである。彼等が今日本の政治の末端に与ってい・・・ 織田作之助 「髪」
・・・ この稿を草する間にも、彼はいかがわしい施薬結果を、全国の新聞紙上に広告した。即ち、それによると、過去四ヵ月の間に七十名の貧病者に無料施薬をしたというのである。全国数十万の肺患者のうち、僅か七十名に施薬しただけのことを、鬼の首でもとった・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・といって、ほかの者ではその作家の顔は判らない。私情で雑誌の発行を遅らせては済まないと、寺田はやはり律義者らしくいやいや競馬場へ出掛けた。ちょうど一競走終ったところらしく、スタンドからぞろぞろと引き揚げて来る群衆の顔を、この中に一代の男がいる・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・交潤社は四条通と木屋町通の角にある地下室の酒場で、撮影所の連中や贅沢な学生達が行く、京都ではまず高級な酒場だったし、しかも一代はそこのナンバーワンだったから、寺田のような風采の上らぬ律義者の中学教師が一代を細君にしたと聴いて、驚かぬ者はなか・・・ 織田作之助 「競馬」
出典:青空文庫