・・・「これゃ、支柱をあてがわにゃ、落盤がありゃしねえかな。」脚の悪い老人は、心配げにカンテラをさし上げて広々とした洞窟の天井を見上げた。「岩質が堅牢だから大丈夫だ。」 老人はなお、ざら/\に掘り上げられた天井の隅々をさぐるように、カ・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・今でも其の時分の面影を残して居る私塾が市中を捜したらば少しは有るでしょうが、殆ど先ず今日は絶えたといっても宜敷いのです。私塾と云えばいずれ規模の大きいのは無いのですが、それらの塾は実に小規模のもので、学舎というよりむしろただの家といった方が・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・午後二時というに上野を出でて高崎におもむく汽車に便りて熊谷まで行かんとするなれば、夏の日の真盛りの頃を歩むこととて、市中の塵埃のにおい、馬車の騒ぎあえるなど、見る眼あつげならざるはなし。とある家にて百万遍の念仏会を催し、爺嫗打交りて大なる珠・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ 二十九日、市中を散歩するにわずか二年余見ざりしうちに、著しく家列びもよく道路も美しくなり、大町末広町なんどおさおさ東京にも劣るべからず。公園のみは寒気強きところなれば樹木の勢いもよからで、山水の眺めはありながら何となく飽かぬ心地すれど・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・と云われると、それが厳しい叱咤であろうと何であろうと、活路を死中に示され、暗夜に灯火を得たが如く、急に涙の顔を挙げて、「ハイ」と答えたが、事態の現在を眼にすると、復今更にハラハラと泣いて、「まことに相済みませぬ疎忽を致しました。・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ 原は聞いて貰う積りで、市中には事業があっても生活が無い、生活のあるのは郊外だ――そこで自分の計画には角筈か千駄木あたりへ引越して来る、とにかく家を移す、先ず住むことを考えて、それから事業の方に取掛る、こう話した。「それじゃあ、家の・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・私たちはその特筆大書した定価の文字を新聞紙上の広告欄にも、書籍小売店の軒先にも、市中を練り歩く広告夫の背中にまで見つけた。この思い切った宣伝が廉価出版の気勢を添えて、最初の計画ではせいぜい二三万のものだろうと言われていたのが、いよいよ蓋をあ・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・そのため、東京市中や市外の要所々々にも歩哨が立ち、暴徒しゅう来等の流言にびくびくしていた人たちもすっかり安神しましたし、混雑につけ入って色んな勝手なことをしがちな、市中一たいのちつじょもついて来ました。出動部隊は近衛師団、第一師団のほか、地・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
暑い時に、ふいと思い出すのは猿簑の中にある「夏の月」である。 市中は物のにほひや夏の月 凡兆 いい句である。感覚の表現が正確である。私は漁師まちを思い出す。人によっては、神田神保町あたりを思い浮べたり、あ・・・ 太宰治 「天狗」
・・・そして頭部の線の集団全体を載せる台のような役目をしていると同時に、全体の支柱となるからだの鉛直線に無理なく流れ込んでいる。それが下方に行って再び開いて裾の線を作っている。 浮世絵の線が最も複雑に乱れている所、また線の曲折の最もはげしい所・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
出典:青空文庫