・・・蚊柱の声の様に聞こえて来るケルソン市の薄暮のささやきと、大運搬船を引く小蒸汽の刻をきざむ様な響とが、私の胸の落ちつかないせわしい心地としっくり調子を合わせた。 私は立った儘大運搬船の上を見廻して見た。 寂然して溢れる計り坐ったり立っ・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・赤暖簾のかかった五銭喫茶店へはいればしっくりと似合う彼が、そんな店へ行くのにはむろん理由がなくてはかなわぬ。女だ。「カスタニエン」の女給の幾子に、彼の表現に従えば「肩入れ」しているのである。 もう十日も通っているのだ。いや、通うというよ・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・…… 実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に思える――それがあの頃のことなんだから。 私はもう往来を軽やかな昂奮に弾んで、一種誇りかな気持・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・自分のの蓋を丹泉の鼎に合せて見ると、しっくりと合する。台座を合せて見ても、またそれがために造ったもののようにぴたりと合う。いよいよ驚いた太常は溜息を吐かぬばかりになって、「して君のこの定鼎はどういうところからの伝来である」と問うた。すると丹・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・でもどうも仲がしっくり行かなかったのね。お前さんが内へ来ると、あの人がなんだか困ったような様子をするじゃないか。それがまた気になってね。なんだかこう着物のしたてが悪くって体に合わないような心持ね。そこでどうにかしてあの人にお前さんに優しくし・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・日本語では、自由という言葉は、はじめ政治的の意味に使われたのだそうですから、Freiheit の本来の意味と、しっくり合わないかも知れない。Freiheit とは、とらわれない、拘束されない、素朴のものを指していうのです。frei でない例・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・それはどうにもならないほどしっくり似合った墓標である、と思ったからであった。 太宰治 「猿面冠者」
・・・そんな打ち明け話があってから、芹川さんと私との間は、以前ほど、しっくり行かなくなって、女の子って変なものですね、誰か間に男の人がひとりはいると、それまでどんなに親しくつき合っていたっても、颯っと態度が鹿爪らしくなって、まるで、よそよそしくな・・・ 太宰治 「誰も知らぬ」
・・・他人の気がするのである。しっくりゆかない。不和である。お互い心理の読みあいに火花を散らして戦っている。そうしてお互い、どうしても釈然と笑いあうことができないのである。 はじめこの家にやってきたころは、まだ子供で、地べたの蟻を不審そうに観・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・その習慣が長く続くと、生理的に、ある方面がロストしてしまって、肉と霊とがしっくり合わんそうだ」 「ばかな……」 と笑ったものがある。 「だッて、子供ができるじゃないか」 と誰かが言った。 「それは子供はできるさ……」と前・・・ 田山花袋 「少女病」
出典:青空文庫