・・・ ……枝を交した松の下には、しっとり砂に露の下りた、細い路が続いている。大空に澄んだ無数の星も、その松の枝の重なったここへは、滅多に光を落して来ない。が、海の近い事は、疎な芒に流れて来る潮風が明かに語っている。陳はさっきからたった一人、・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・小暗い杉の下かげには落葉をたく煙がほの白く上って、しっとりと湿った森の大気は木精のささやきも聞えそうな言いがたいしずけさを漂せた。そのもの静かな森の路をもの静かにゆきちがった、若い、いや幼い巫女の後ろ姿はどんなにか私にめずらしく覚えたろう。・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・そこには華手なモスリンの端切れが乱雲の中に現われた虹のようにしっとり朝露にしめったまま穢ない馬力の上にしまい忘られていた。 狂暴な仁右衛門は赤坊を亡くしてから手がつけられないほど狂暴になった。その狂暴を募らせるよう・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ やがて四阿の向うに来ると、二人さっと両方に分れて、同一さまに深く、お太鼓の帯の腰を扱帯も広く屈むる中を、静に衝と抜けて、早や、しとやかに前なる椅子に衣摺のしっとりする音。 と見ると、藤紫に白茶の帯して、白綾の衣紋を襲ねた、黒髪の艶・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 戸外の広場の一廓、総湯の前には、火の見の階子が、高く初冬の空を抽いて、そこに、うら枯れつつも、大樹の柳の、しっとりと静に枝垂れたのは、「火事なんかありません。」と言いそうである。 横路地から、すぐに見渡さるる、汀の蘆の中に舳が見え・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
一 如月のはじめから三月の末へかけて、まだしっとりと春雨にならぬ間を、毎日のように風が続いた。北も南も吹荒んで、戸障子を煽つ、柱を揺ぶる、屋根を鳴らす、物干棹を刎飛ばす――荒磯や、奥山家、都会離れた国々・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・から高い処を、乗出して、城下を一人で、月の客と澄まして視めている物見の松の、ちょうど、赤い旗が飛移った、と、今見る処に、五日頃の月が出て蒼白い中に、松の樹はお前、大蟹が海松房を引被いて山へ這出た形に、しっとりと濡れて薄靄が絡っている。遥かに・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・褄を高々と掲げて、膝で挟んだあたりから、紅がしっとり垂れて、白い足くびを絡ったが、どうやら濡しょびれた不気味さに、そうして引上げたものらしい。素足に染まって、その紅いのが映りそうなのに、藤色の緒の重い厚ぼったい駒下駄、泥まみれなのを、弱々と・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ と朗に、しっとり聞えた。およそ、妙なるものごしとは、この時言うべき詞であった。「は、」 と載せたまま白紙を。「お持ちなさいまし。」 あなたの手で、スッと微かな、……二つに折れた半紙の音。「は、は。」 と額に押頂・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ それと、戸前が松原で、抽でた古木もないが、ほどよく、暗くなく、あからさまならず、しっとりと、松葉を敷いて、松毬まじりに掻き分けた路も、根を畝って、奥が深い。いつも松露の香がたつようで、実際、初茸、しめじ茸は、この落葉に生えるのである。・・・ 泉鏡花 「古狢」
出典:青空文庫