・・・しかしきょうは人かげもなければ、海水浴区域を指定する赤旗も立っていなかった。ただ広びろとつづいた渚に浪の倒れているばかりだった。葭簾囲いの着もの脱ぎ場にも、――そこには茶色の犬が一匹、細かい羽虫の群れを追いかけていた。が、それも僕等を見ると・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・ではその死後に受けとる二百円は一体誰の手へ渡るのかと言うと、何でも契約書の文面によれば、「遺族または本人の指定したるもの」に支払うことになっていました。実際またそうでもしなければ、残金二百円云々は空文に了るほかはなかったのでしょう、何しろ半・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・だから十三世紀以前には、少くとも人の視聴を聳たしめる程度に、彼は欧羅巴の地をさまよわなかったらしい。所が、千五百五年になると、ボヘミアで、ココトと云う機織りが、六十年以前にその祖父の埋めた財宝を彼の助けを借りて、発掘する事が出来た。そればか・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・今日でも中産下層階級の子弟は何か買いものをするたびにやはり一円持っているものの、一円をすっかり使うことに逡巡してはいないであろうか? 四二 虚栄心 ある冬に近い日の暮れ、僕は元町通りを歩きながら、突然往来の人々が全然・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・Kの如き町家の子弟が結城紬の二枚襲か何かで、納まっていたのは云うまでもない。僕は、この二人の友人に挨拶をして、座につく時に、いささか、tranger の感があった。「これだけ、お客があっては、――さんも大よろこびだろう。」Kが僕に云った・・・ 芥川竜之介 「野呂松人形」
・・・いやしくも父兄が信頼して、子弟の教育を委ねる学校の分として、婦、小児や、茱萸ぐらいの事で、臨時休業は沙汰の限りだ。 私一人の間抜で済まん。 第一そような迷信は、任として、私等が破って棄ててやらなけりゃならんのだろう。そうかッてな、も・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・それ以前とて会えば寒暄を叙する位の面識で、私邸を訪問したのも二、三度しかなかった。シカモその二、三度も、待たされるのがイツモ三十分以上で、漸く対座して十分かソコラで用談を済ますと直ぐ定って、「ドウゾ復たお閑の時御ユックリとお遊びにいらしって・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 井侯が陛下の行幸を鳥居坂の私邸に仰いで団十郎一座の劇を御覧に供したのは劇を賤視する従来の陋見を破って千万言の論文よりも芸術の位置を高める数倍の効果があった。井侯の薨去当時、井侯の逸聞が伝えられるに方って、文壇の或る新人は井侯が団十郎を・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・要するに金持の子弟の遊び場所にすぎないのである。――それに又其等の学校を出れば一定の職業を与えらるゝのが――在来の習慣若しくは形式になっている。此の如き大学の組織である以上、吾々にとっては殆んど無意味である。 そうすると如何しても今のと・・・ 小川未明 「人間性の深奥に立って」
・・・ それでも、さすがに金がなくなって来ると、あわてて家政婦に行かせるのだが、しかし、払出局が指定されていて、その局が遠方にある時は、もう家政婦の手には負えない。六十八歳、文盲、電車にも一人で乗れないという女である。そんな家政婦は取り変えれ・・・ 織田作之助 「鬼」
出典:青空文庫