・・・そこには四五本の棕櫚の中に、枝を垂らした糸桜が一本、夢のように花を煙らせていた。「御主守らせ給え!」 オルガンティノは一瞬間、降魔の十字を切ろうとした。実際その瞬間彼の眼には、この夕闇に咲いた枝垂桜が、それほど無気味に見えたのだった・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・池の左右に植わっているのは、二株とも垂糸檜に違いない。それからまた墻に寄せては、翠柏の屏が結んである。その下にあるのは天工のように、石を積んだ築山である。築山の草はことごとく金糸線綉きんしせんしゅうとんの属ばかりだから、この頃のうそ寒にも凋・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・ それより以前にも、垂仁紀を見ると、八十七年、丹波の国の甕襲と云う人の犬が、貉を噛み食したら、腹の中に八尺瓊曲玉があったと書いてある。この曲玉は馬琴が、八犬伝の中で、八百比丘尼妙椿を出すのに借用した。が、垂仁朝の貉は、ただ肚裡に明珠を蔵・・・ 芥川竜之介 「貉」
・・・女は牟子を垂れて居りましたから、顔はわたしにはわかりません。見えたのはただ萩重ねらしい、衣の色ばかりでございます。馬は月毛の、――確か法師髪の馬のようでございました。丈でございますか? 丈は四寸もございましたか? ――何しろ沙門の事でござい・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・ 見ても、薄桃色に、また青く透明る、冷い、甘い露の垂りそうな瓜に対して、もの欲げに思われるのを恥じたのであろう。茶店にやや遠い人待石に―― で、その石には腰も掛けず、草に蹲って、そして妙な事をする。……煙草を喫むのに、燐寸を摺った。・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 掻垂れ眉を上と下、大きな口で莞爾した。「姉様、己の号外だよ。今朝、号外に腹が痛んだで、稲葉丸さ号外になまけただが、直きまた号外に治っただよ。」「それは困ったねえ、それでもすっかり治ったの。」と紅絹切の小耳を細かく、ちょいちょい・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・腐れた肺が呼吸に鳴るのか――ぐしょ濡れで裾から雫が垂れるから、骨を絞る響であろう――傘の古骨が風に軋むように、啾々と不気味に聞こえる。「しいッ、」「やあ、」 しッ、しッ、しッ。 曳声を揚げて……こっちは陽気だ。手頃な丸太棒を・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・島の若布のごとき襤褸蒲団にくるまって、抜綿の丸げたのを枕にしている、これさえじかづけであるのに、親仁が水でも吐したせいか、船へ上げられた時よりは髪がひっ潰れて、今もびっしょりで哀である、昨夜はこの雫の垂るる下で、死際の蟋蟀が鳴いていた。・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・…… この土地の新聞一種、買っては読めない境遇だったし、新聞社の掲示板の前へ立つにも、土地は狭い、人目に立つ、死出三途ともいう処を、一所にさまよった身体だけに、自分から気が怯けて、避けるように、避けるように、世間のうわさに遠ざかったから・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・心易いものと心易いものが、お互いに死出の友を求めて組みし合い、抱き合うばかりにして突進した。今から思て見ると、よく、まア、あないな勇気が出たことや。後について来ると思たものが足音を絶つ、並んどったものが見えん様になる、前に進むものが倒れてし・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
出典:青空文庫