・・・月待草に朝露しとど湿った、浜の芝原を無邪気な子どもを相手に遊んでおれば、人生のことも思う機会がない。 あってみない前の思いほどでなく、お光さんもただ懇切な身内の人で予も平気なればお光さんも平気であったに、ただ一日お光さんは夫の許しを得て・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・ところは寂びたり、人里は遠し、雨の小止をまたんよすがもなければ、しとど降る中をひた走りに走らす。ようやく寺尾というところにいたりたる時、路のほとりに一つ家の見えければ、車ひく男駆け入りて、おのれらもいこい、我らをもいこわしむ。男らの面を見れ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・兵衛真弘と云う者、腹巻取って打ち懸け、長刀持ちて走り出でけるが、佐殿を見奉り、馬の口に取り附き、『落人をば留め申せと、六波羅より仰せ下され給う』とて既に抱き下し奉らんとしければ、鬚切の名刀を以て抜打にしとど打たれければ、真弘が真向二つに打ち・・・ 太宰治 「花吹雪」
出典:青空文庫