・・・彼はまっ赤になったまま、しどろもどろに言い訣をした。「いや、実は小遣いは、――小遣いはないのに違いないんですが、――東京へ行けばどうかなりますし、――第一もう東京へは行かないことにしているんですから。……」「まあ、取ってお置きなさい・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ それから休憩時間の喇叭が鳴るまで、我毛利先生はいつもよりさらにしどろもどろになって、憐むべきロングフェロオを無二無三に訳読しようとした。「Life is real, life is earnest.」――あの血色の悪い丸顔を汗ばませて・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・ ようよう一こと言ったが、おとよはまた泣き伏すのである。「省さん、あとから手紙で申し上げますから、今夜は思うさま泣かしてください」 しどろもどろにおとよは声を呑むのである。省作はとうとう一語も言い得ない。 悲しくつらく玉の緒・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 私はしどろもどろの詭弁を弄していたのだ。「青春の逆説」とは不潔ないいわけであった。若さのない作品しか書けぬ自分を時代のせいにし、ジェネレーションの罪にするのは卑怯だぞと、私は狼狽してコップを口に当てたが、泡は残った。 しかし海老原・・・ 織田作之助 「世相」
・・・生活が作品である。しどろもどろである。私の書くものが、それがどんな形式であろうが、それはきっと私の全存在に素直なものであった筈である。この安心は、たいしたものだ。すっかり居直ってしまった形である。自分ながらあきれている。どうにも、手のつけよ・・・ 太宰治 「一日の労苦」
・・・人生の冷酷な悪戯を、奇蹟の可能を、峻厳な復讐の実現を、深山の精気のように、きびしく肌に感じたのだ。しどろもどろになり、声まで嗄れて、「よく来たねえ。」まるで意味ないことを呟いた。絶えず訪問客になやまされている人の、これが、口癖になってい・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ どうやら今夜の手紙も、しどろもどろの手紙になりました。かなぶんぶんが、次から次と部屋へはいって来て、どうも落ちついて書けませぬ。この部屋は、この宿のうちで最下等の部屋のようであります。襖の絵が、全然なっていません。一本の梅の枝に、鶯が・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・ その辺の応答までは、まず上出来の部類なのであるが、あと、だんだんいけなくなる。しどろもどろになるのである。「どう思います、このごろの他の人の小説を、どう思います。」と問われて、私は、ひどくまごつく。敢然たる言葉を私は、何も持ってい・・・ 太宰治 「鴎」
・・・中畑さんが兵隊だったとは、実に意外で、私は、しどろもどろになった。中畑さんは、平気でにこにこ笑い、ちょっと列から離れかけたので私は、いよいよ狼狽して、顔が耳元まで熱くなって逃げてしまった。他の兵隊さんの笑い声も聞えた。 その、呼びかけら・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・追伸、この手紙に、僕は、言い足りない、或は言い過ぎた、ことの自己嫌悪を感じ、『ダス・ゲマイネ』のうちの言葉、『しどろもどろの看板』を感じる。太宰さん、これは、だめです。だいいち私に、異性の友人など、いつできたのだろう。全部ウソです。サインな・・・ 太宰治 「虚構の春」
出典:青空文庫