・・・甚太夫は竹刀を執って、また三人の侍を打ち据えた。四人目には家中の若侍に、新陰流の剣術を指南している瀬沼兵衛が相手になった。甚太夫は指南番の面目を思って、兵衛に勝を譲ろうと思った。が、勝を譲ったと云う事が、心あるものには分るように、手際よく負・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・一たび二人の竹刀の間へ、扇を持って立った上は、天道に従わねばなりませぬ。わたくしはこう思いましたゆえ、多門と数馬との立ち合う時にも公平ばかりを心がけました。けれどもただいま申し上げた通り、わたくしは数馬に勝たせたいと思って居るのでございます・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・このゆえに自分はひとり天主閣にとどまらず松江の市内に散在する多くの神社と梵刹とを愛するとともに(ことに月照寺における松平家の廟所新たな建築物の増加をもけっして忌憚しようとは思っていない。不幸にして自分は城山の公園に建てられた光栄ある興雲閣に・・・ 芥川竜之介 「松江印象記」
・・・夜更けて乗る市内の電車でも、時々尋常の考に及ばない、妙な出来事に遇うものです。その中でも可笑しいのは人気のない町を行く赤電車や青電車が、乗る人もない停留場へちゃんと止まる事でしょう。これも前の紙屑同様、疑わしいと御思いになったら、今夜でもた・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 鰒は多し、また壮に膳に上す国で、魚市は言うにも及ばず、市内到る処の魚屋の店に、春となると、この怪い魚を鬻がない処はない。 が、おかしな売方、一頭々々を、あの鰭の黄ばんだ、黒斑なのを、ずぼんと裏返しに、どろりと脂ぎって、ぬらぬらと白・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・なおかくの通りの旱魃、市内はもとより近郷隣国、ただ炎の中に悶えまする時、希有の大魚の躍りましたは、甘露、法雨やがて、禽獣草木に到るまでも、雨に蘇生りまする前表かとも存じまする。三宝の利益、四方の大慶。太夫様にお祝儀を申上げ、われらとても心祝・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・触ると撓いそうな痩せぎすな、すらりとした、若い女で。……聞いてもうまそうだが、これは凄かったろう、その時、東京で想像しても、嶮しいとも、高いとも、深いとも、峰谷の重なり合った木曾山中のしらしらあけです……暗い裾に焚火を搦めて、すっくりと立ち・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ 二十五年前には東京市内には新橋と上野浅草間に鉄道馬車が通じていたゞけで、ノロノロした痩馬のガタクリして行く馬車が非常なる危険として見られて「お婆アさん危いよ」という俗謡が流行った。電灯が試験的に点火されても一時間に十度も二十度も消えて・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・ これについて、富豪の宏大なる邸宅、空地は、市内処々に散在する。彼等の中には、他に幾つも別荘を所有する者もあって、たゞ一つという訳でなく、所有欲より、すべての山林、畑地の名儀にて登記し、公然、脱税せるものもあるのだ。かりに、これを借りる・・・ 小川未明 「児童の解放擁護」
・・・だから、いちいち指定の市内の銀行まで取りに行かねばならぬのだが、家政婦は市内の東も西もわからぬ女である。といって十吉が起きて行く頃にはもう銀行は閉っている。ずるずるべったりに放って置いて、やがて市内で会合のある時など早くから外出した序でに、・・・ 織田作之助 「鬼」
出典:青空文庫