・・・と、しなやかにだが、勢いよくからだが曲がるかと思うと、黒い物が飛んで来て、正ちゃんの手をはずれて、僕の肩に当った。「おほ、ほ、ほ! 御免下さい」と、向うは笑いくずれたが、すぐ白いつばを吐いて、顔を洗い出した。飛んで来たのは僕のがま口だ。・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ ファン・エックの聖母は高貴な瓔珞をいただいているが子どもにはぐくませる乳房のふくらみなく、その手は細く、しなやかであるが、抱いてる子どもの重さにもたえそうにもない。これに反しデューラーのマリアは貧しい頭巾をかぶっているが乳房は健かにふ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・両脚がしなやかに伸びて草花の茎のようで、皮膚が、ほどよく冷い。 ――どうかね。 ――誇張じゃないんです。私、あのひとに関しては、どうしても嘘をつけない。 ――あんまり、ひどくだましたからだ。 ――おどろいたな。けれども、全く・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ B 尾上てるは、含羞むような笑顔と、しなやかな四肢とを持った気性のつよい娘であった。浅草の或る町の三味線職の長女として生れた。かなりの店であったが、てるが十三の時、父は大酒のために指がふるえて仕事がうまく出来・・・ 太宰治 「古典風」
・・・著しく長くてしなやかなしっぽもその特徴であった。相当大きくなっていながら通りがかりの人に捕えられるくらいであるから鷹揚というよりはむしろ愚鈍であるかと思われた。しかしまた今までうちにいたどの猫にもできなかった自分で襖を明けて出はいりするとい・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・その一条をとりてわれかつて笛吹きし時たけたかく伸びし野の草はおろかや牧場は端より端にいたるまであるいはしなやかなる柳の木ささやかなる音して流るる小川さへ皆一時に応へてふるへをののぎぬ。蘆の細茎の一すぢは過ぎし日かつて・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・先生は紀元前の半島の人のごとくに、しなやかな革で作ったサンダルを穿いておとなしく電車の傍を歩るいている。 先生は昔し烏を飼っておられた。どこから来たか分らないのを餌をやって放し飼にしたのである。先生と烏とは妙な因縁に聞える。この二つを頭・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・枝が幹の根を去る六尺位の所から上を向いて、しなやかな線を描いて生えている。その枝が聚まって、中が膨れ、上が尖がって欄干の擬宝珠か、筆の穂の水を含んだ形状をする。枝の悉くは丸い黄な葉を以て隙間なきまでに綴られているから、枝の重なる筆の穂は色の・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・碧いそら、かがやく太陽、丘をかけて行く風、花のそのかんばしいはなびらや、しべ、草のしなやかなからだ、すべてこれをのせになう丘や野原、王子たちのびろうどの上着や涙にかがやく瞳、すべてすべて十力の金剛石でした。あの十力の大宝珠でした。あの十力の・・・ 宮沢賢治 「虹の絵具皿」
・・・云うまでもなくシリンクスの肌のしなやかさをしとうてじゃ。第一の精霊 アポロー殿がとび切りの上機嫌の今日でさえ嬉しがりもせず笑いもせなんだものと云う謎はとけたワ。ペーン殿は、年がまだ若いワ、髪が房々としなやかで頬は豊かで――うらやましい事・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
出典:青空文庫