人間は皆一度ずつ死ぬるのであるという事は、人間皆知って居るわけであるが、それを強く感ずる人とそれ程感じない人とがあるようだ。或人はまだ年も若いのに頻りに死という事を気にして、今夜これから眠ったらばあしたの朝は此儘死んでいる・・・ 正岡子規 「死後」
・・・ すると父が母もまだ伊勢詣りさえしないのだし祖母だって伊勢詣り一ぺんとここらの観音巡り一ぺんしただけこの十何年死ぬまでに善光寺へお詣りしたいとそればかり云っているのだ、ことに去年からのここら全体の旱魃でいま外へ遊んで歩くなんてことはとな・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・人間は生れるときから死ぬまで恋愛ばかりに没頭しているのではありません。又、他人の恋愛問題と自分のそれとは全然個々独立したもので、それぞれ違った価値と内容運命とを持っている筈のものです。恋愛とさえ云えば、十が十純粋な麗わしい花であるとも思えま・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・そして殉死者の遺族が主家の優待を受けるということを考えて、それで己は家族を安穏な地位において、安んじて死ぬることが出来ると思った。それと同時に長十郎の顔は晴れ晴れした気色になった。 四月十七日の朝、長十郎は衣服を改めて母の前に出て、・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・鼓に急き立てられて修羅の街へ出かければ、山奥の青苔が褥となッたり、河岸の小砂利が襖となッたり、その内に……敵が……そら、太鼓が……右左に大将の下知が……そこで命がなくなッて、跡は野原でこのありさまだ。死ぬ時にはさぞもがいたろう,さぞ死ぬまい・・・ 山田美妙 「武蔵野」
優れた作品を書く方法の一つとして、一日に一度は是非自分がその日のうちに死ぬと思うこと、とジッドはいったということであるが、一日に一度ではなくとも、三日に一度は私たちでもそのように思う癖がある。殊に子供を持つようになってからはなおさらそ・・・ 横光利一 「作家の生活」
・・・僕は死ぬるという事はどういう事か、まだ判然分らなかったのですが、この時大事な大事な奥様の静かに眠っていらっしゃるのを、跡に見てすすり泣きしながら、徳蔵おじに手を引れて、外へ出た時、初めて世はういものという、習い始めをしました。 これから・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・そうして自分にまるで死ぬつもりのないことを発見した。「今死んではたまらない。しかしたぶん自分は永生きするだろう。」こういう思いが私から死に対する痛切な感じを奪っている。あたかも「死」という運命が自分の上にはかかっていないかのように。結局私は・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫