・・・そして口に手拭を喰わえてそれを開くと、一寸四方ほどな何か字の書いてある紙片を摘み出して指の先きで丸めた。水を持って来さしてそれをその中へ浸した。仁右衛門はそれを赤坊に飲ませろとさし出されたが、飲ませるだけの勇気もなかった。妻は甲斐甲斐しく良・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 聞澄して、里見夫人、裳を前へ捌こうとすると、うっかりした褄がかかって、引留められたようによろめいたが、衣裄に手をかけ、四辺をみまわし、向うの押入をじっと見る、瞼に颯と薄紅梅。 九 煙草盆、枕、火鉢、座蒲団も・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・日あたりの納戸に据えた枕蚊帳の蒼き中に、昼の蛍の光なく、すやすやと寐入っているが、可愛らしさは四辺にこぼれた、畳も、縁も、手遊、玩弄物。 犬張子が横に寝て、起上り小法師のころりと坐った、縁台に、はりもの板を斜めにして、添乳の衣紋も繕わず・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・よく言う事だが、四辺が渺として、底冷い靄に包まれて、人影も見えず、これなりに、やがて、逢魔が時になろうとする。 町屋の屋根に隠れつつ、巽に展けて海がある。その反対の、山裾の窪に当る、石段の左の端に、べたりと附着いて、溝鼠が這上ったように・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 目の露したたり、口許も綻びそうな、写真を取って、思わず、四辺を見て半紙に包もうとした。 トタンに人気勢がした。 樹島はバッとあかくなった。 猛然として憶起した事がある。八歳か、九歳の頃であろう。雛人形は活きている。雛市は弥・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ と賽の目に切った紙片を、膝にも敷物にもぱらぱらと夜風に散らして、縞の筒袖凜々しいのを衝と張って、菜切庖丁に金剛砂の花骨牌ほどな砥を当てながら、余り仰向いては人を見ぬ、包ましやかな毛糸の襟巻、頬の細いも人柄で、大道店の息子株。 押並・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 日南の虹の姫たちである。 風情に見愡れて、近江屋の客はただ一人、三角畑の角に立って、山を背に繞らしつつ彳んでいるのであった。 四辺の長閑かさ。しかし静な事は――昼飯を済せてから――買ものに出た時とは反対の方に――そぞろ歩行でぶ・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・(四辺ちょいとお花見をして行きましょうよ。……誰も居ない。腰を掛けて、よ。慥にここと見覚えの門の扉に立寄れば、お蔦 感心でしょう。私も素人になったわね。風に鳴子の音高く、時に、ようようと蔭にて二三人、ハタハタと拍手の音。・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・ 二 渋茶を喫しながら、四辺を見る。街道の景色、また格別でございまして、今は駅路の鈴の音こそ聞えませぬが、馬、車、処の人々、本願寺詣の行者の類、これに豆腐屋、魚屋、郵便配達などが交って往来引きも切らず、「早稲の香・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・彼はにぎやかで、四辺がきれいなのに驚きました。しかし、それも初めのうちだけでした。彼は、また故郷が恋しくなりました。母や、父や、友だちや、遊んだ森や、野原が恋しくなりました。恋しくなると、彼の性質として矢も楯もたまらなくなりました。ある夜、・・・ 小川未明 「海へ」
出典:青空文庫