・・・こういう妄想を、而も斯ういう長い年月の間、頭脳の裏に入れて置くとは、何という狂気染みた事だろう、と書いたものなぞがあるが、頭脳が悪かったという事は、時々書いたものにも見えるようである。北村君はある点まで自分の Brain Disease を・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・長い寒い夜なぞは凍み裂ける部屋の柱の音を聞きながら、唯もう穴に隠れる虫のようにちいさくなって居た。 この「冬」が私には先入主になってしまった。私はあの山の上で七度も「冬」を迎えた。私の眼に映る「冬」は唯灰色のものだった。巴里の方で逢った・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
・・・一度降ったら春まで溶けずにある雪の積もりに積もった庭に向いた部屋で、寒さのために凍み裂ける恐ろしげな家の柱の音なぞを聞きながら、夜おそくまでひとりで机にむかっていた時の心持ちは忘れられない。でも、私はあの山の上から東京へ出て来て見るたびに、・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・ 戦場でのすさまじい砲声、修羅の巷、残忍な死骸、そういうものを見てきた私には、ことにそうした静かな自然の景色がしみじみと染み通った。その対照が私に非常に深く人生と自然とを思わせた。 ある日、O君に言った。「弥勒に一度つれて行って・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・もう一つの例は『一代女』の終りに近く、ヒロインの一代の薄暮、多分雨のそぼ降る折柄でもあったろう「おもひ出して観念の窓より覗けば、蓮の葉笠を着たるやうなる子供の面影、腰より下は血に染みて、九十五、六程も立ならび、声のあやぎれもなくおはりよ/\・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・つまり、中学時代の染みやすい頭にこの『徒然草』が濃厚に浸み込んでしまったには相違ないであろうが、しかし、それにはやはりそれが浸み込みやすいような風に自分の若い時の頭の下地が出来ていたのかもしれないと思われる。そういう下地はしかしおそらく同時・・・ 寺田寅彦 「徒然草の鑑賞」
・・・するとその鏡の奥に写ったのが――いつもの通り髭だらけな垢染みた顔だろうと思うと――不思議だねえ――実に妙な事があるじゃないか」「どうしたい」「青白い細君の病気に窶れた姿がスーとあらわれたと云うんだがね――いえそれはちょっと信じられん・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・「そうして山の中で芝居染みた事を云ってさ」「ハハハハしかしあの時は大いに感服して、うん、うん、て云ったようだぜ」「あの時は感心もしたが、こうなって見ると馬鹿気ていらあ。君ありゃ真面目かい」「ふふん」「冗談か」「どっち・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・おれの靴は水が染みて海綿のようになってけつかる。」こう言い掛けて相手を見た。 爺いさんは膝の上に手を組んで、その上に頭を低く垂れている。 一本腕はさらに語り続けた。「いやはや。まるで貧乏神そっくりと云う風をしているなあ。きょうは貰い・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・就中幼少の時、見習い聞き覚えて習慣となりたることは、深く染み込めて容易に矯め直しの出来ぬものなり。さればこそ習慣は第二の天性を成すといい、幼稚の性質は百歳までともいう程のことにて、真に人の賢不肖は、父母家庭の教育次第なりというも可なり。家庭・・・ 福沢諭吉 「家庭習慣の教えを論ず」
出典:青空文庫