・・・僕をして過たしめたものは実は君の諳誦なんだからな」とやっと冷笑を投げ返した。と云うのは蛇笏を褒めた時に、博覧強記なる赤木桁平もどう云う頭の狂いだったか、「芋の露連山影を正うす」と云う句を「連山影を斉うす」と間違えて僕に聞かせたからである。・・・ 芥川竜之介 「飯田蛇笏」
・・・「ええ、胞衣を埋めた標に立てる石ですね。」「どうして?」「ちゃんと字のあるのも見えますもの。」 彼女は肩越しにわたしを眺め、ちらりと冷笑に近い表情を示した。「誰でも胞衣をかぶって生まれて来るんですね?」「つまらないこ・・・ 芥川竜之介 「夢」
土用波という高い波が風もないのに海岸に打寄せる頃になると、海水浴に来ている都の人たちも段々別荘をしめて帰ってゆくようになります。今までは海岸の砂の上にも水の中にも、朝から晩まで、沢山の人が集って来て、砂山からでも見ていると・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ その人の癖らしく矢部はめったに言葉に締めくくりをつけなかった。それがいかにも手慣れた商人らしく彼には思われた。 帳簿に向かうと父の顔色は急に引き締まって、監督に対する時と同じようになった。用のある時は呼ぶからと言うので監督は事務所・・・ 有島武郎 「親子」
・・・とか、そのころの青年をわけもなく酔わしめた揮発性の言葉が、いつの間にか私を酔わしめなくなった。恋の醒めぎわのような空虚の感が、自分で自分を考える時はもちろん、詩作上の先輩に逢い、もしくはその人たちの作を読む時にも、始終私を離れなかった。それ・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・とぴたりと帯に手を当てると、帯しめの金金具が、指の中でパチリと鳴る。 先刻から、ぞくぞくして、ちりけ元は水のような老番頭、思いの外、女客の恐れぬを見て、この分なら、お次へ四天王にも及ぶまいと、「ええ、さようならばお静に。」「ああ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 周囲に柵を結いたれどそれも低く、錠はあれど鎖さず。注連引結いたる。青く艶かなる円き石の大なる下より溢るるを樋の口に受けて木の柄杓を添えあり。神業と思うにや、六部順礼など遠く来りて賽すとて、一文銭二文銭の青く錆びたるが、円き木の葉のごと・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ 年倍なる兀頭は、紐のついた大な蝦蟇口を突込んだ、布袋腹に、褌のあからさまな前はだけで、土地で売る雪を切った氷を、手拭にくるんで南瓜かぶりに、頤を締めて、やっぱり洋傘、この大爺が殿で。「あらッ、水がある……」 と一人の女が金切声・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・浄め砂置いた広庭の壇場には、幣をひきゆい、注連かけわたし、来ります神の道は、(千道、百綱とも言えば、(綾を織り、錦と謡うほどだから、奥山人が、代々に伝えた紙細工に、巧を凝らして、千道百綱を虹のように。飾の鳥には、雉子、山鶏、秋草、もみじを切・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・時しも、鬱金木綿が薄よごれて、しなびた包、おちへ来て一霜くらった、大角豆のようなのを嬉しそうに開けて、一粒々々、根附だ、玉だ、緒〆だと、むかしから伝われば、道楽でためた秘蔵の小まものを並べて楽しむ処へ――それ、しも手から、しゃっぽで、袴で、・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
出典:青空文庫