・・・おせんは編物ばかりでなく、手工に関したことは何でも好きな女で、刺繍なぞも好くしたが、終にはそんな細い仕事にまぎれてこの部屋で日を送っていたことを考えた。 悲しい幕が開けて行った。大塚さんはその刺繍台の側に、許し難い、若い二人を見つけた。・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・博士は、ときどき、思い出しては、にやにや笑い、また、ひとり、ひそかにこっくり首肯して、もっともらしく眉を上げて吃っとなってみたり、あるいは全くの不良青少年のように、ひゅうひゅう下手な口笛をこころみたりなどして歩いているうちに、どしんと、博士・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・り屋台、手古舞、山車、花火、三島の花火は昔から伝統のあるものらしく、水花火というものもあって、それは大社の池の真中で仕掛花火を行い、その花火が池面に映り、花火がもくもく池の底から涌いて出るように見える趣向になって居るのだそうであります。凡そ・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・たちに酒肴を供するに足りる筈はなかったのである。 しかし、事態は、そこまで到っている。皆、呑むつもりなのだ。早稲田界隈の親分を思いがけなく迎えて、当然、呑むべきだと思っているらしい気配なのだ。 私は井伏さんの顔を見た。皆に囲まれて籐・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・先生は、しさいらしく首肯して、「必ずやそれは、傑作でしょう。君たちには、まだまだ、この幽玄な、けもの、いや、魚類、いや、」ひどくあわてはじめた。顔をあからめ、髭をこすり、「これは、なんといったものかな? 水族、つまり、おっとせいの類だね、お・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・このような趣向が、果して芸術の正道であるか邪道であるか、それについてはおのずから種々の論議の発生すべきところでありますが、いまはそれに触れず、この不思議な作品の、もう少しさきまで読んでみることに致しましょう。どうしても、この原作者が、目前に・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・先生は、そっぽを向いて、暫く黙って考えて居られたが、やがて、しぶしぶ首肯せられた。私は、ほっとした。もう大丈夫。「ありがとうございます。何せ、お嫁さんのおじいさんは、槍の名人だそうですからね、大隅君だって油断は出来ません。そこのところを・・・ 太宰治 「佳日」
・・・最初、お照が髪を梳いて抜毛を丸めて、無雑作に庭に投げ捨て、立ち上るところがありますけれど、あの一行半ばかりの描写で、お照さんの肉体も宿命も、自然に首肯出来ますので、思わず私は微笑みました。庭の苔の描写は、余計のように思われましたけれど、なお・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・所謂政府の役人と、所謂民衆とが街頭に於いて互いに意見を述べ合うという趣向である。 所謂民衆たちは、ほとんど怒っているような口調で、れいの官僚に食ってかかる。すると、官僚は、妙な笑い声を交えながら、実に幼稚な観念語(たとえば、研究中、ごも・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
鴎というのは、あいつは、唖の鳥なんだってね、と言うと、たいていの人は、おや、そうですか、そうかも知れませんね、と平気で首肯するので、かえってこっちが狼狽して、いやまあ、なんだか、そんな気がするじゃないか、と自身の出鱈目を白状しなければ・・・ 太宰治 「鴎」
出典:青空文庫