・・・ オルガンティノは寂しそうに、砂の赤い小径を歩きながら、ぼんやり追憶に耽っていた。羅馬の大本山、リスポアの港、羅面琴の音、巴旦杏の味、「御主、わがアニマの鏡」の歌――そう云う思い出はいつのまにか、この紅毛の沙門の心へ、懐郷の悲しみを運ん・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・坊ちゃんも、――坊ちゃんは小径の砂利を拾うと、力一ぱい白へ投げつけました。「畜生! まだ愚図愚図しているな。これでもか? これでもか?」砂利は続けさまに飛んで来ました。中には白の耳のつけ根へ、血の滲むくらい当ったのもあります。白はとうと・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・ 彼は鶺鴒の云うなり次第に、砂利を敷いた小径を歩いて行った。が、鶺鴒はどう思ったか、突然また空へ躍り上った。その代り背の高い機関兵が一人、小径をこちらへ歩いて来た。保吉はこの機関兵の顔にどこか見覚えのある心もちがした。機関兵はやはり敬礼・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・なにしろ堂脇のお嬢さんていうのには、俺は全く憧憬してしまった。その姿にみとれていたもんで、おやじの言葉なんか、半分がた聞き漏らしちゃった。沢本 馬鹿。青島 あの娘なら芸術がほんとうにわかるに違いない。芸術家の妻になるために生まれ・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・我々は彼の純粋にてかつ美しき感情をもって語られた梁川の異常なる宗教的実験の報告を読んで、その遠神清浄なる心境に対してかぎりなき希求憧憬の情を走らせながらも、またつねに、彼が一個の肺病患者であるという事実を忘れなかった。いつからとなく我々の心・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ 不気味に凄い、魔の小路だというのに、婦が一人で、湯帰りの捷径を怪んでは不可い。……実はこの小母さんだから通ったのである。 つい、の字なりに畝った小路の、大川へ出口の小さな二階家に、独身で住って、門に周易の看板を出している、小母さん・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ やがて、世の状とて、絶えてその人の俤を見る事の出来ずなってから、心も魂もただ憧憬に、家さえ、町さえ、霧の中を、夢のようにさまよった。――故郷の大通りの辻に、老舗の書店の軒に、土地の新聞を、日ごとに額面に挿んで掲げた。表三の面上段に、絵・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ わざと途中、余所で聞いて、虎杖村に憧憬れ行く。…… 道は鎮守がめあてでした。 白い、静な、曇った日に、山吹も色が浅い、小流に、苔蒸した石の橋が架って、その奥に大きくはありませんが深く神寂びた社があって、大木の杉がすらすらと杉な・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・ が、一刻も早く東京へ――唯その憧憬に、山も見ず、雲も見ず、無二無三に道を急いで、忘れもしない、村の名の虎杖に着いた時は、杖という字に縋りたい思がした。――近頃は多く板取と書くのを見る。その頃、藁家の軒札には虎杖村と書いてあった。 ・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・つい近い頃、東京から、それはそれは美しい奥さんが見えましたよ―― 何とこうした時は、見ぬ恋にも憧憬れよう。 欲いのは――もしか出来たら――偐紫の源氏雛、姿も国貞の錦絵ぐらいな、花桐を第一に、藤の方、紫、黄昏、桂木、桂木は人も知った朧・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
出典:青空文庫