・・・或日、深川の町はずれを処定めず、やがて扇橋のあたりから釜屋堀の岸づたいに歩みを運ぶ中、わたくしはふと路傍の朽廃した小祠の前に一片の断碑を見た。碑には女木塚として、その下に、秋に添て行ばや末は小松川 芭蕉翁と刻してあった・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・天井を見ると左右は低く中央が高く馬の鬣のごとき形ちをしてその一番高い背筋を通して硝子張りの明り取りが着いている。このアチックに洩れて来る光線は皆頭の上から真直に這入る。そうしてその頭の上は硝子一枚を隔てて全世界に通ずる大空である。眼に遮るも・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・それらの夢の景色の中では、すべての色彩が鮮やかな原色をして、海も、空も、硝子のように透明な真青だった。醒めての後にも、私はそのヴィジョンを記憶しており、しばしば現実の世界の中で、異様の錯覚を起したりした。 薬物によるこうした旅行は、だが・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ が、乳色の、磨硝子の靄を通して灯を見るように、監獄の厚い壁を通して、雑音から街の地理を感得するように、彼の頭の中に、少年が不可解な光を投げた。 靄の先の光は、月であるか、電燈であるか、又は窓であるか、は解らなかったが光である事は疑・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・恥かしくて人に手を出すことの出来ない奴の真似をして、上等の料理屋や旨い物店の硝子窓の外に立っていたこともある。駄目だ。中にいる奴は、そんな事には構わねえ。外に物欲しげな人間が見ているのを、振り返ってもみずに、面白げに飲んだり食ったりしゃあが・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・Bibelots と云う名の附いている小さい装飾品に、硝子鐘が被せてある。物を書く卓の上には、貴重な文房具が置いてある。主人ピエエルが現代に始めて出来た精神的貴族社会の一員であると云うことは、この周囲を見て察せられる。あるいは精神的富豪社会・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
為事室。建築はアンピイル式。背景の右と左とに大いなる窓あり。真中に硝子の扉ありてバルコンに出づる口となりおる。バルコンよりは木の階段にて庭に降るるようなりおる。左には広き開き戸あり。右にも同じ戸ありて寝間に通じ、この分は緑の天鵞絨の・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・村はずれの小道を畑づたいにやや山手の方へのぼり行けば四坪ばかり地を囲うて中に範頼の霊を祭りたる小祠とその側に立てたる石碑とのみ空しく秋にあれて中々にとうとし。うやうやしく祠前に手をつきて拝めば数百年の昔、目の前に現れて覚えずほろほろと落つる・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・ それは空気の中に何かしらそらぞらしい硝子の分子のようなものが浮んできたのでもわかりましたが第一東の九つの小さな青い星で囲まれたそらの泉水のようなものが大へん光が弱くなりそこの空は早くも鋼青から天河石の板に変っていたことから実にあきらか・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・大通りから一寸入った左側で、硝子が四枚入口に立っている仕舞屋であった。土間からいきなり四畳、唐紙で区切られた六畳が、陽子の借りようという座敷であった。「まだ新しいな」「へえ、昨年新築致しましたんで、一夏お貸ししただけでございます。手・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
出典:青空文庫