・・・ 此処にまた立留って、少時猶予っていたのである。 木格子の中に硝子戸を入れた店の、仕事の道具は見透いたが、弟子の前垂も見えず、主人の平吉が半纏も見えぬ。 羽織の袖口両方が、胸にぐいと上るように両腕を組むと、身体に勢を入れて、つか・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・三月の中の七日、珍しく朝凪ぎして、そのまま穏かに一日暮れて……空はどんよりと曇ったが、底に雨気を持ったのさえ、頃日の埃には、もの和かに視められる……じとじととした雲一面、星はなけれど宵月の、朧々の大路小路。辻には長唄の流しも聞えた。 こ・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・の裡で、動くのが、動くばかりでなくなって、もそもそと這うような、ものをいうような、ぐっぐっ、と巨きな鼻が息をするような、その鼻が舐めるような、舌を出すような、蒼黄色い顔――畜生――牡丹の根で気絶して、生死も知らないでいたうちの事が現に顕われ・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・その消えた後も、人の目の幻に、船の帆は少時その萌黄の油を塗った。……「畳で言いますと」――話し手の若い人は見まわしたが、作者の住居にはあいにく八畳以上の座敷がない。「そうですね、三十畳、いやもっと五十畳、あるいはそれ以上かも知れなかったので・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・その小字に長者屋敷と云うは、全く無人の境なり。茲に行きて炭を焼く者ありき。或夜その小屋の垂菰をかかげて、内を覗う者を見たり。髪を長く二つに分けて垂れたる女なり。このあたりにても深夜に女の叫声を聞くことは、珍しからず。佐々木氏の祖父の弟、・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・チチッ、チチッと少時捜して、パッと枇杷の樹へ飛んで帰ると、そのあとで、密と頭を半分出してきょろきょろと見ながら、嬉しそうに、羽を揺って後から颯と飛んで行く。……惟うに、人の子のするかくれんぼである。 さて、こうたわいもない事を言っている・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ この使のついでに、明神の石坂、開化楼裏の、あの切立の段を下りた宮本町の横小路に、相馬煎餅――塩煎餅の、焼方の、醤油の斑に、何となく轡の形の浮出して見える名物がある。――茶受にしよう、是非お千さんにも食べさしたいと、甘谷の発議。で、宗吉・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・いくたびも生死の境にさまよいながら、今年初めて……東京上野の展覧会――「姐さんは知っているか。」「ええこの辺でも評判でございます。」――その上野の美術展覧会に入選した。 構図というのが、湖畔の霜の鷭なのである。――「鷭は一生を通じて・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・もうずッと精進で。……さて、あれほどの竹の、竹の子はどんなだろう。食べたら古今の珍味だろう、というような話から、修善寺の奥の院の山の独活、これは字も似たり、独鈷うどと称えて形も似ている、仙家の美膳、秋はまた自然薯、いずれも今時の若がえり法な・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・お魚はほんのつけたりで、おもに精進ものの取引をするんですよ。そういっては、十貫十ウの、いまの親仁に叱られるかも知れないけれど、皆が蓮根市場というくらいなんですわ。」「成程、大きに。――しかもその実、お前さんと……むかしの蓮池を見に、寄道・・・ 泉鏡花 「古狢」
出典:青空文庫