・・・そんな心の底に、生死もわからぬ妻子のことがあった。「おい、巧いぞ。もっとやってくれ」 浮浪者の中から、声が来た。「阿呆いえ。そんな殺生な注文があるか。こんな時に、落語やれいうのは、葬式の日にヤッチョロマカセを踊れいうより、殺生や・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・そしてちょっと考えて、神楽坂の方へとぼとぼ……、その坂下のごみごみした小路のなかに学生相手の小質屋があり、今はそこを唯一のたのみとしているわけだが、しかし質種はない。いろいろ考えた末、ポケットにさしてある万年筆に思い当り、そや、これで十円借・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・すると御免とも云わずに表の格子戸をそうっと開けて、例の立退き請求の三百が、玄関の開いてた障子の間から、ぬうっと顔を突出した。「まあお入りなさい」彼は少し酒の気の廻っていた処なので、坐ったなり元気好く声をかけた。「否もうこゝで結構です・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・分家の長兄もいつか運転手の服装を改めて座につき、仕出し屋から運ばれた簡単な精進料理のお膳が二十人前ほど並んで、お銚子が出されたりして、ややいなかのお葬式めいた気持になってきた。それからお経が始まり、さらに式場が本堂前に移されて引導を渡され、・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・ 朽ちかけた梯子をあがろうとして、眼の前の小部屋の障子が開いていた。なかには蒲団が敷いてあり、人の眼がこちらを睨んでいた。知らぬふりであがって行きながら喬は、こんな場所での気強さ、と思った。 火の見へあがると、この界隈を覆っているの・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・声をかける前に、少時行一は姑を客観しながら歩いた。家人を往来で眺める珍しい心で。「なんてしょんぼりしているんだろう」 肩の表情は痛いたしかった。「お帰り」「あ。お帰り」姑はなにか呆けているような貌だった。「疲れてますね。・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・ 買物があるという姑を八百屋の店に残して、彼は暗い星の冴えた小路へ急ぎ足で入った。 梶井基次郎 「雪後」
・・・ 糸につれて唄い出す声は、岩間に咽ぶ水を抑えて、巧みに流す生田の一節、客はまたさらに心を動かしてか、煙草をよそに思わずそなたを見上げぬ。障子は隔ての関を据えて、松は心なく光琳風の影を宿せり。客はそのまま目を転じて、下の谷間を打ち見やりし・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・故郷の風景は旧の通りである、しかし自分は最早以前の少年ではない、自分はただ幾歳かの年を増したばかりでなく、幸か不幸か、人生の問題になやまされ、生死の問題に深入りし、等しく自然に対しても以前の心には全く趣を変えていたのである。言いがたき暗愁は・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・日本全国、どこの城下も町は新しく変わり、士族小路は古く変わるのが例であるが岩――もその通りで、町の方は新しい建物もでき、きらびやかな店もできて万、何となく今の世のさまにともなっているが、士族屋敷の方はその反対で、いたるところ、古い都の断礎の・・・ 国木田独歩 「河霧」
出典:青空文庫