・・・ 杜氏は、醸造場へ来ると事務所へ与助を呼んで、障子を閉め切って、外へ話がもれないように小声で主人の旨を伝えた。 お正月に、餅につけて食う砂糖だけはあると思って、帆前垂にくるんだザラメを、小麦俵を積重ねた間にかくして、与助は一と息・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・室は紙障子引きたてしのみにて雨戸ひくということもせず戸の後鎖することもせざる、さすがに御神の御稜威ありがたしと心に浸みて嬉しくおぼえ、胸の海浪おだやかに夢の湊に入る。 九日、朝四時というに起き出でて手あらい口そそぎ、高き杉の樹梢などは見・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ 上野に着きて少時待つほどに二時となりて汽車は走り出でぬ。熱し熱しと人もいい我も喞つ。鴻巣上尾あたりは、暑気に倦めるあまりの夢心地に過ぎて、熊谷という駅夫の声に驚き下りぬ。ここは荒川近き賑わえる町なり。明日は牛頭天王の祭りとて、大通りに・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・そこで菊亭殿が姓氏録を検めて、はじめて豊臣秀吉となった。 これも植通は宜かった。信長秀吉の鼻の頭をちょっと弾いたところ、お公卿様にもこういう人の一人ぐらいあった方が慥に好かった。秀吉が藤原氏にならなかったのも勿論好かった。このところ両天・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・頭には勝てぬに相違無いが、内々は其諺通りに地頭を――戦乱の世の地頭、銭ばかり取りたがる地頭を、飴ばかりせびる泣く児のように思っている人民の地、文化は勝れ、学問諸芸遊伎等までも秀でている地の、其の堺の大小路を南へ、南の荘の立派な屋並の中の、分・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・自分は少時立って見送っていると、彼もまたふと振返ってこちらを見た。自分を見て、ちょっと首を低くして挨拶したが、その眉目は既に分明には見えなかった。五位鷺がギャアと夕空を鳴いて過ぎた。 その翌日も翌日も自分は同じ西袋へ出かけた。しかしどう・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・わたくしは、長寿かならずしも幸福ではなく、幸福はただ自己の満足をもって生死するにありと信じていた。もしまた人生に、社会的価値とも名づけるべきものがあるとすれば、それは、長寿にあるのではなくて、その人格と事業とか、四囲および後代におよぼす感化・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ これ私の性の獰猛なるに由る乎、癡愚なるに由る乎、自分には解らぬが、併し今の私に人間の生死、殊に死刑に就ては、粗ぼ左の如き考えを有って居る。 二 万物は皆な流れ去るとヘラクリタスも言った、諸行は無常、宇宙は変化の・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・恵子と似た前からくる女を恵子と思い、友だちといっしょに歩いていたときでもよくきゅうに引き返して、小路へ入った。恵子は大柄な、女にはめずらしく前開きの歩き方をするので、そんな特徴の女に会うと、そのたびに間違ってギョッとした。不快でたまらなかっ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・彼は入口まで行った。障子にはめてある硝子には半紙が貼ってあって、ハッキリ中は見えなかったが、女はいなかった。龍介は入口の硝子戸によりかかりながら、家の中へちょっと口笛を吹いてみた。が、出てこない。その時、龍介はフト上りはなに新しい爪皮のかか・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
出典:青空文庫