・・・しかしちょうど月光のようにこの男を、――この男の正体を見る見る明らかにする一ことだった。常子は息を呑んだまま、しばらくは声を失ったように男の顔を見つめつづけた。男は髭を伸ばした上、別人のように窶れている。が、彼女を見ている瞳は確かに待ちに待・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・殊に「御言葉の御聖徳により、ぱんと酒の色形は変らずといえども、その正体はおん主の御血肉となり変る」尊いさがらめんとを信じている。おぎんの心は両親のように、熱風に吹かれた沙漠ではない。素朴な野薔薇の花を交えた、実りの豊かな麦畠である。おぎんは・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
(一しょに大学を出た親しい友だちの一人に、ある夏の午後京浜電車の中で遇 この間、社の用でYへ行った時の話だ。向うで宴会を開いて、僕を招待してくれた事がある。何しろYの事だから、床の間には石版摺りの乃木大将の掛物がかかって・・・ 芥川竜之介 「片恋」
・・・ お蓮はそう尋ねながら、相手の正体を直覚していた。そうしてこの根の抜けた丸髷に、小紋の羽織の袖を合せた、どこか影の薄い女の顔へ、じっと眼を注いでいた。「私は――」 女はちょいとためらった後、やはり俯向き勝に話し続けた。「私は・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
野呂松人形を使うから、見に来ないかと云う招待が突然来た。招待してくれたのは、知らない人である。が、文面で、その人が、僕の友人の知人だと云う事がわかった。「K氏も御出の事と存じ候えば」とか何とか、書いてある。Kが、僕の友人で・・・ 芥川竜之介 「野呂松人形」
・・・中やすみの風が変って、火先が井戸端から舐めはじめた、てっきり放火の正体だ。見逃してやったが最後、直ぐに番町は黒焦さね。私が一番生捕って、御覧じろ、火事の卵を硝子の中へ泳がせて、追付け金魚の看板をお目に懸ける。……」「まったく、懸念無量じ・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・その待女郎の目が、一つ、黄色に照って、縦にきらきらと天井の暗さに光る、と見つつ、且つその俎の女の正体をお誓に言うのに、一度、気を取られて、見直した時、ふと、もうその目の玉の縦に切れたのが消えていた。 斑はんみょうだ。斑が留っていた。・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・と、おくれ馳せながら、正体見たり枯尾花流に――続いて説明に及ぶと、澄んで沈んだ真顔になって、鹿落の旅館の、その三つ並んだ真中の厠は、取壊して今はない筈だ、と言って、先手に、もう知っている。…… はてな、そういえば、朝また、ようをたした時・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・その第五中隊第一小隊に、僕は伍長として、大石軍曹と共に、属しておったんや。進行中に、大石軍曹は何とのうそわそわして、ただ、まえの方へ、まえの方へと浮き足になるんで、或時、上官から、大石、しッかりせい。貴様は今からそんなざまじゃア、大砲の音を・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・音楽会を開いて招待しても嘆願しても聞きに来る人は一人も無かった。 二十五年前には日本の島田や丸髷の目方が何十匁とか何百匁とかあって衛生上害があるという理由で束髪が行われ初め、前髪も鬢も髦も最後までが二十七年、頼政の旗上げから数えるとたっ・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
出典:青空文庫