・・・ 二人は月のさす小道を銀を引きのべた様な湖を後に家に向いました。森を出ると家々の灯はもうすっかりともされていかにも夏の夜らしい景色、二人は足をはやめてはじから三番目の灯の方に向いました。二人は戸口で、「さようなら、よいゆめを、又・・・ 宮本百合子 「無題(一)」
・・・それに対してリアリズムを芸術の正道と信じている人々は、何も写実が今日のリアリズムではないと迄は云うけれど、では、どういうのが目ざされているリアリズムかというと、それを短くはっきり定義づけることには困難が感じられているようだ。 リアリズム・・・ 宮本百合子 「リアルな方法とは」
・・・ そう云う美しい女詩人が人を殺して獄に下ったのだから、当時世間の視聴を聳動したのも無理はない。 ―――――――――――――――――――― 魚玄機の生れた家は、長安の大道から横に曲がって行く小さい街にあった。所・・・ 森鴎外 「魚玄機」
・・・ 万斛の玉を転ばすような音をさせて流れている谷川に沿うて登る小道を、温泉宿の方から数人の人が登って来るらしい。 賑やかに話しながら近づいて来る。 小鳥が群がって囀るような声である。 皆子供に違ない。女の子に違ない。「早く・・・ 森鴎外 「杯」
・・・元服して正道と名のっている厨子王は、身のやつれるほど歎いた。 その年の秋の除目に正道は丹後の国守にせられた。これは遙授の官で、任国には自分で往かずに、掾をおいて治めさせるのである。しかし国守は最初の政として、丹後一国で人の売り買いを禁じ・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・ 次に人の目に附いたのは、衝動生活、就中性欲方面の生活を書くことに骨が折ってある事であった。それも西洋の近頃の作品のように色彩の濃いものではない。言わば今まで遠慮し勝ちにしてあった物が、さほど遠慮せずに書いてあるという位に過ぎない。・・・ 森鴎外 「沈黙の塔」
・・・は人力車が通うが、左側に近頃刈り込んだ事のなさそうな生垣を見て右側に広い邸跡を大きい松が一本我物顔に占めている赤土の地盤を見ながら、ここからが坂だと思う辺まで来ると、突然勾配の強い、狭い、曲りくねった小道になる。人力車に乗って降りられないの・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・おもちゃが動くおもちゃだと、それを動かす衝動の元を尋ねて見たくなるのである。子供は Physique より Mメタフィジック に之くのである。理学より形而上学に之くのである。 僅か四五ペエジの文章なので、面白さに釣られてとうとう読んでし・・・ 森鴎外 「花子」
・・・その高貴をもって全ヨーロッパに鳴り響いたハプスブルグの女の頭上へ、彼は平民の病いを堂々と押しつけてやりたい衝動を感じ出した。――余は一平民の息子である。余はフランスを征服した。余は伊太利を征服した。余は西班牙とプロシャとオーストリアを征服し・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・私はそれを自己と認めたくない衝動にさえ駆られる。しかし私は絶望する心を鞭うって自己を正視する。悲しみのなかから勇ましい心持ちが湧いて出るまで。私の愛は恋人が醜いゆえにますます募るのである。 私は絶えずチクチク私の心を刺す執拗な腹の虫を断・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫