・・・ 自分は幾度となく、青い水に臨んだアカシアが、初夏のやわらかな風にふかれて、ほろほろと白い花を落すのを見た。自分は幾度となく、霧の多い十一月の夜に、暗い水の空を寒むそうに鳴く、千鳥の声を聞いた。自分の見、自分の聞くすべてのものは、ことご・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
ある曇った初夏の朝、堀川保吉は悄然とプラットフォオムの石段を登って行った。と云っても格別大したことではない。彼はただズボンのポケットの底に六十何銭しか金のないことを不愉快に思っていたのである。 当時の堀川保吉はいつも金・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ 今でもはっきり覚えていますが、それは王氏の庭の牡丹が、玉欄の外に咲き誇った、風のない初夏の午過ぎです。私は王氏の顔を見ると、揖もすますかすまさない内に、思わず笑いだしてしまいました。「もう秋山図はこちらの物です。煙客先生もあの図で・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・ 滝田君に最後に会ったのは今年の初夏、丁度ドラマ・リイグの見物日に新橋演舞場へ行った時である。小康を得た滝田君は三人のお嬢さんたちと見物に来ていた。僕はその顔を眺めた時、思わず「ずいぶんやせましたね」といった。この言葉はもちろん滝田君に・・・ 芥川竜之介 「滝田哲太郎君」
・・・ ある日の午後、尼提はいつものように諸家の糞尿を大きい瓦器の中に集め、そのまた瓦器を背に負ったまま、いろいろの店の軒を並べた、狭苦しい路を歩いていた。すると向うから歩いて来たのは鉢を持った一人の沙門である。尼提はこの沙門を見るが早いか、・・・ 芥川竜之介 「尼提」
私が改造の正月号に「宣言一つ」を書いてから、諸家が盛んにあの問題について論議した。それはおそらくあの問題が論議せらるべく空中に漂っていたのだろう。そして私の短文がわずかにその口火をなしたのにすぎない。それゆえ始めの間の論駁・・・ 有島武郎 「想片」
・・・なき母をあこがれて、父とともに詣でしことあり。初夏の頃なりしよ。里川に合歓花あり、田に白鷺あり。麦やや青く、桑の芽の萌黄に萌えつつも、北国の事なれば、薄靄ある空に桃の影の紅染み、晴れたる水に李の色蒼く澄みて、午の時、月の影も添う、御堂のあた・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ 春は過ぎても、初夏の日の長い、五月中旬、午頃の郵便局は閑なもの。受附にもどの口にも他に立集う人は一人もなかった。が、為替は直ぐ手取早くは受取れなかった。 取扱いが如何にも気長で、「金額は何ほどですか。差出人は誰でありますか。貴・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 次第に、麦も、田も色には出たが、菜種の花も雨にたたかれ、畠に、畝に、ひょろひょろと乱れて、女郎花の露を思わせるばかり。初夏はおろか、春の闌な景色とさえ思われない。 ああ、雲が切れた、明いと思う処は、「沼だ、ああ、大な沼だ。」・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・ど、ど、どれも諸家様の御秘蔵にござりますが、少々ずつ修覆をいたす処がありまして、お預り申しておりますので。――はい、店口にござります、その紫の袈裟を召したのは私が刻みました。祖師のお像でござりますが、喜撰法師のように見えます処が、業の至りま・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
出典:青空文庫