・・・喜三郎は寺の門を出ながら、加納親子や左近の霊が彼等に冥助を与えているような、気強さを感ぜずにはいられなかった。 甚太夫は喜三郎の話を聞きながら、天運の到来を祝すと共に、今まで兵衛の寺詣でに気づかなかった事を口惜しく思った。「もう八日経て・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
ある婦人雑誌社の面会室。 主筆 でっぷり肥った四十前後の紳士。 堀川保吉 主筆の肥っているだけに痩せた上にも痩せて見える三十前後の、――ちょっと一口には形容出来ない。が、とにかく紳士と呼ぶのに躊躇することだけは事実・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・ある曇った日の午後、私はその展覧会の各室を一々叮嚀に見て歩いて、ようやく当時の版画が陳列されている、最後の一室へはいった時、そこの硝子戸棚の前へ立って、古ぼけた何枚かの銅版画を眺めている一人の紳士が眼にはいった。紳士は背のすらっとした、どこ・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・が、声だと思ったのは、時計の振子が暗い中に、秒を刻んでいる音らしかった。「御止し。御止し。御止し。」 しかし梯子を上りかけると、声はもう一度お蓮を捉えた。彼女はそこへ立ち止りながら、茶の間の暗闇を透かして見た。「誰だい?」「・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・そうして明る年、進士の試験に及第して、渭南の尉になりました。それから、監察御史や起居舎人知制誥を経て、とんとん拍子に中書門下平章事になりましたが、讒を受けてあぶなく殺される所をやっと助かって、驩州へ流される事になりました。そこにかれこれ五六・・・ 芥川竜之介 「黄粱夢」
・・・――「わたしは『四進士』を除きさえすれば、全京劇の価値を否定したい。」しかし是等の京劇は少くとも甚だ哲学的である。哲学者胡適氏はこの価値の前に多少氏の雷霆の怒を和げる訣には行かないであろうか? 経験 経験ばかりにたよるの・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・その名家に、万一汚辱を蒙らせるような事があったならば、どうしよう。臣子の分として、九原の下、板倉家累代の父祖に見ゆべき顔は、どこにもない。 こう思った林右衛門は、私に一族の中を物色した。すると幸い、当時若年寄を勤めている板倉佐渡守には、・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・その生活の規則的なる事、エマヌエル・カントの再来か時計の振子かと思う程なりき。当時僕等のクラスには、久米正雄の如き或は菊池寛の如き、天縦の材少なからず、是等の豪傑は恒藤と違い、酒を飲んだりストオムをやったり、天馬の空を行くが如き、或は乗合自・・・ 芥川竜之介 「恒藤恭氏」
・・・――と云うのは、天井の両側に行儀よく並んでいる吊皮が、電車の動揺するのにつれて、皆振子のように揺れていますが、新蔵の前の吊皮だけは、始終じっと一つ所に、動かないでいるのです。それも始は可笑しいなくらいな心もちで、深くは気にも止めませんでした・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・それを思うと彼は黙って親子というものを考えたかった。「お前は夕飯はどうした」 そう突然父が尋ねた。監督はいつものとおり無表情に見える声で、「いえなに……」 と曖昧に答えた。父は蒲団の左角にひきつけてある懐中道具の中から、重そ・・・ 有島武郎 「親子」
出典:青空文庫