・・・はいって来る信徒らは皆入り口の壁や柱にある手水鉢に指の先をちょっと入れて、額へ持って行って胸へおろしてそれから左の乳から右の乳へ十字をかく。堂のわきのマドンナやクリストのお像にはお蝋燭がともって二三人ずつその前にひざまずいて祈っている。蝋燭・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・キリシタンを禁じた時代の宗教の熱心さと、信仰の自由を許されて後の信徒の熱心さとの比較でもそうである。自由を許したとて、信徒の数にしても決してそう驚くほど多くはならないのである。 こういう意味からすると、ラジオが出来たためにわれわれの音楽・・・ 寺田寅彦 「ラジオ雑感」
・・・然し新都百般の経営既に成った後之を非難するは、病の膏盲に入った後治療の法を講ぜんとするが如きものであろう。東京の都市は王政復古の後早くも六十年の星霜を閲しながら、猶防火衛生の如き必須の設備すら完成することが出来ずにいる。都市のことを言うに臨・・・ 永井荷風 「上野」
・・・白い鳩は基督教の信徒には意義があるかも知れないが、然らざるものの葬儀にこれを贈るのは何のためであろう。 元来わたくしの身には遵奉すべき宗旨がなかった。西洋人をして言わしめたら、無神論者とか、リーブル・パンサウールとか称するものであろう。・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・熾烈な日光が之を熱して更に熱する時、冷却せる雨水の注射に因って、一大破裂を来たしたかと想う雷鳴は、ぱりぱりと乾燥した音響を無辺際に伝いて、軈て其玻璃器の大破片が落下したかと思われる音響が、ずしんと大地をゆるがして更にどろどろと遠く消散する。・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・初めの大きな声に反してこの低い声が耳の底をつき抜けて頭の中へしんと浸み込んだような気持がする。なぜだか分らない。細い針は根まで這入る、低くても透る声は骨に答えるのであろう。碧瑠璃の大空に瞳ほどな黒き点をはたと打たれたような心持ちである。消え・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・それで、たまらなく平田が恋しくなッて、善吉が気の毒になッて、心細くなッて、自分がはかなまれて沈んで行くように頭がしんとなって、耳には善吉の言葉が一々よく聞え、善吉の泣いているのもよく見え、たまらなく悲しくなッて来て、ついに泣き出さずにはいら・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ つめたいしめった空気がしんとみんなのからだにせまったとき子供らは歓呼の声をあげました。そんなに樹は高く深くしげっていたのです。それにいろいろの太さの蔓がくしゃくしゃにその木をまといみちも大へんに暗かったのです。 ただその梢のところ・・・ 宮沢賢治 「学者アラムハラドの見た着物」
・・・というわけはそのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり一番前の机にちゃんと座っていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。もひとりの子ももう半分泣きかけ・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・というわけは、そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり、いちばん前の机にちゃんとすわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。 もひとりの子も・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
出典:青空文庫