・・・、寝転んで下から見上げると、いかにも高くいかにも能く澄んだ真夏の真昼の青空の色をも、今だに忘れず記憶している…… これもやはりそういう真夏の日盛り、自分は倉造りの運送問屋のつづいた堀留あたりを親父橋の方へと、商家の軒下の僅かなる日陰・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・傍から見れば何の事か分らない。親父が無理算段の学資を工面して卒業の上は月給でも取らせて早く隠居でもしたいと思っているのに、子供の方では活計の方なんかまるで無頓着で、ただ天地の真理を発見したいなどと太平楽を並べて机に靠れて苦り切っているのもあ・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・遊んでいるように見えるのは懐にある金が働いてくれているからのことで、その金というものは人のためにする事なしにただ遊んでいてできたものではない。親父が額に汗を出した記念だとかあるいは婆さんの臍繰だとか中には因縁付きの悪い金もありましょうけれど・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・両夫婦は一家に同居せずして、其一組は近隣なり又は屋敷中の別戸なり、又或は家計の許さゞることあらば同一の家屋中にても一切の世帯を別々にして、詰る所は新旧両夫婦相触るゝの点を少なくすること至極の肝要なり。新婦の為めに老夫婦は骨肉の父母に非ざる尚・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・四十近くでは若旦那でもない訳だが、それは六十に余る達者な親父があって、その親父がまた慾ばりきったごうつくばりのえら者で、なかなか六十になっても七十になっても隠居なんかしないので、立派な一人前の後つぎを持ちながらまだ容易に財産を引き渡さぬ、そ・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・本当に親父のいる頃不自由なくしてやってた癖が抜けないでね。本当に困っちゃいますよ」 一太は、楊枝の先に一粒ずつ黒豆を突さし、沁み沁み美味さ嬉しさを味いつつ食べ始める。傍で、じろじろ息子を見守りながら、ツメオも茶をよばれた。 これは雨・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ 十円といくらかの銭ほかない貧乏親父をこんなにたよりにして、どうする気なんだろうとも思った。 火ともし頃になって恭二と良吉が局から空弁当を下げて帰るまで枕元に座ったっきり栄蔵はお君のそばをはなれなかった。 良吉は、飯の時に新らし・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・佐兵衛は「お前のような不孝者を、親父様に知らせずに留めて置く事は出来ぬ」と云った。亀蔵はすごすご深野屋の店を立ち去ったが、それを見たものが、「あれは紀州の亀蔵と云う男で、なんでも江戸で悪い事をして、逃げて来たのだろう」と評判した。 後に・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・江戸子のちゃきちゃきだ。親父は幕府の造船所に勤めていたものだ。それあの何とかいう爺いさんがいたっけなあ。勝安芳よ。勝なんぞも苦労をしたが、内の親父も苦労をしたもんだ。同じ苦労をしても、勝は靱い命を持っていやぁがるから生きていた。親父はこっく・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・と腰に弓を張る親父が水鼻を垂らして軍略を皆伝すれば、「あぶなかッたら人の後に隠れてなるたけ早く逃げるがいいよ」と兜の緒を緊めてくれる母親が涙を噛み交ぜて忠告する。ても耳の底に残るように懐かしい声、目の奥に止まるほどに眤しい顔をば「さようなら・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫