・・・ある地方の高等学校へ、去年の秋入学した兄、――彼よりも色の黒い、彼よりも肥った兄の顔が、彼には今も頭のどこかに、ありあり浮んで見えるような気がした。「ハハワルシ、スグカエレ」――彼は始こう書いたが、すぐにまた紙を裂いて、「ハハビョウキ、スグ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・彼はしょうことなしに監督の持って来た東京新聞の地方版をいじくりまわしていた。北海道の記事を除いたすべては一つ残らず青森までの汽車の中で読み飽いたものばかりだった。「お前は今日の早田の説明で農場のことはたいてい呑みこめたか」 ややしば・・・ 有島武郎 「親子」
・・・―― ところで、いま言った古小路は、私の家から十町余りも離れていて、縁で視めても、二階から伸上っても、それに……地方の事だから、板葺屋根へ上ってしても、実は建連った賑な町家に隔てられて、その方角には、橋はもとよりの事、川の流も見えないし・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・主人の姉――名はお貞――というのが、昔からのえら物で、そこの女将たる実権を握っていて、地方有志の宴会にでも出ると、井筒屋の女将お貞婆さんと言えば、なかなか幅が利く代り、家にいては、主人夫婦を呼び棄てにして、少しでもその意地の悪い心に落ちない・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・というは馬喰町の郡代屋敷へ訴訟に上る地方人の告訴状の代書もすれば相談対手にもなる、走り使いもすれば下駄も洗う、逗留客の屋外囲の用事は何でも引受ける重宝人であった。その頃訴訟のため度々上府した幸手の大百姓があって、或年財布を忘れて帰国したのを・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ こうして、それから四、五年の後には、牛女の子供は、この地方での幸福な身の上の百姓となったのであります。 小川未明 「牛女」
俳優というものは、如何いうものか、こういう談を沢山に持っている、これも或俳優が実見した談だ。 今から最早十数年前、その俳優が、地方を巡業して、加賀の金沢市で暫時逗留して、其地で芝居をうっていたことがあった、その時にその・・・ 小山内薫 「因果」
・・・佻で薄っぺらなのは一に東京を中心とし、東京以外に文壇なしと云う先入主から、あらゆる文学青年が東京に於ける一流の作家や文学雑誌の模倣を事とするからであって、その風潮を打破するには、真に日本の土から生れる地方の文学を起すより外はない。ついては、・・・ 織田作之助 「東京文壇に与う」
・・・Kは午前中は地方の新聞の長篇小説を書いて居る。午後は午睡や散歩や、友達を訪ねたり訪ねられたりする時間にあててある。彼は電車の中で、今にも昏倒しそうな不安な気持を感じながらどうか誰も来ていないで呉れ……と祈るように思う。先客があったり、後から・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ そこで彼は失敗やら成功やら、二十年の間に東京を中心としておもに東北地方を舞台に色んな事をやって見たが、ついに失敗に終わったと言うよりもむしろ、もはや精根の泉を涸らしてしまった。 そして故郷へ帰って来た。漂って来たのではない、実に帰・・・ 国木田独歩 「河霧」
出典:青空文庫