・・・それで御辞儀をして、どうも何とかですと云ったが、相手はどうしても鏡の中へ出て来ない。 すると白い着物を着た大きな男が、自分の後ろへ来て、鋏と櫛を持って自分の頭を眺め出した。自分は薄い髭を捩って、どうだろう物になるだろうかと尋ねた。白い男・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・未だ年にすれば沢山ある筈の黒髪は汚物や血で固められて、捨てられた棕櫚箒のようだった。字義通りに彼女は瘠せ衰えて、棒のように見えた。 幼い時から、あらゆる人生の惨苦と戦って来た一人の女性が、労働力の最後の残渣まで売り尽して、愈々最後に売る・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・能代の膳には、徳利が袴をはいて、児戯みたいな香味の皿と、木皿に散蓮華が添えて置いてあッて、猪口の黄金水には、桜花の弁が二枚散ッた画と、端に吉里と仮名で書いたのが、浮いているかのように見える。 膳と斜めに、ぼんやり箪笥にもたれている吉里に・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 此一章は専ら嫉妬心を警しむるの趣意なれば、我輩は先ず其嫉妬なる文字の字義を明にせんに、凡そ他人の為す所にして我身の利害に関係なきことを羨み、怨み憎らしく思い、甚しきは根もなきことに立腹して他の不幸を祈り他を害せんとす、之を嫉妬・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ すなわち、これ広き字義にしたがいて国政にかかわるものというべし。ただちに政府に接せずして、間接にその政に参与するものというべし。間接の勢は直接の力よりもかえって強きものなり。学者これを思わざるべからず。今の人民の世界にいて事を企つるは・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・その講ずるところの書は翻訳書を用い、足らざるときは漢書をも講じ、ただ字義を説くにあらず、断章取義、もって文明の趣旨を述ぶるを主とせり。 小学校の費用は、はじめ、これを建つるとき、その半を官よりたすけ、半は市中の富豪より出だして、家を建て・・・ 福沢諭吉 「京都学校の記」
・・・ 左れば瘠我慢の一主義は固より人の私情に出ることにして、冷淡なる数理より論ずるときはほとんど児戯に等しといわるるも弁解に辞なきがごとくなれども、世界古今の実際において、所謂国家なるものを目的に定めてこれを維持保存せんとする者は、この主義・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・併し文学が児戯に類すると云う話と、今の話は別だよ。ただ批評をして見ると、一寸そんな事を云って見度くなるのだね。 私は、まア、懐疑派だ。第一論理という事が馬鹿々々しい。思想之法則は人間の頭に上る思想を整理するだけで、其が人間の真生活とどれ・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・○くだものの字義 くだもの、というのはくだすものという義で、くだすというのは腐ることである。菓物は凡て熟するものであるから、それをくさるといったのである。大概の菓物はくだものに違いないが、栗、椎の実、胡桃、団栗などいうものは、くだも・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・ 彼女は、丁寧に辞宜をした。「有難うございます」 そして、下げた頭をそのまま後じさりに扉をしめ、がちゃりと把手を元に戻して立ち去った。 部屋は再び静になった。 彼は始めてのうのうとした心持になった。「ああああ、さてこれで・・・ 宮本百合子 「或る日」
出典:青空文庫