・・・見る間に三万坪に余る過去の一大磁石は現世に浮游するこの小鉄屑を吸収しおわった。門を入って振り返ったとき、憂の国に行かんとするものはこの門を潜れ。永劫の呵責に遭わんとするものはこの門をくぐれ。迷惑の人と伍せんとするものはこの門・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・元来私は、磁石の方角を直覚する感官機能に、何かの著るしい欠陥をもった人間である。そのため道のおぼえが悪く、少し慣れない土地へ行くと、すぐ迷児になってしまった。その上私には、道を歩きながら瞑想に耽る癖があった。途中で知人に挨拶されても、少しも・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ひろく万国の歴史を読み、治乱興廃の事跡を明らかにし、此彼相比較せざれば、一方に偏するの弊を生じ、事にあたりて所置を錯ること多し。他人の常言も我耳に新しく、恐るべきを恐れず、悦ぶべきを悦ばず、風声鶴唳を聞きて走るの笑をとることあり。かくの如き・・・ 福沢諭吉 「学校の説」
・・・日本の外には亜細亜諸国、西洋諸洲の歴史もほとんど無数にして、その間には古今英雄豪傑の事跡を見るべし。歴山王、ナポレオンの功業を察し、ニウトン、ワット、アダム・スミスの学識を想像すれば、海外に豊太閤なきに非ず、物徂徠も誠に東海の一小先生のみ。・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・天下の父母は必ずその子を愛してその上達を願うの至情あるべしといえども、今日世上一般の事跡に顕われたる実際を見れば、子を取扱うの無情なること鬼の如く蛇の如く、これを鬼父蛇母と称するも妨げなき者甚だ多し。あるいはその鬼たり蛇たるの際にも、自ずか・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・その虚実、要不要の論はしばらく擱き、我が日本国人が外国交際を重んじてこれを等閑に附せず、我が力のあらん限りを尽して、以て自国の体面を張らんとするの精神は誠に明白にして、その愛国の衷情、実際の事跡に現われたるものというべし。 然るに、我輩・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・ 曙覧の事蹟及び性行に関しては未だこれを聞くを得ず。歌集にあるところをもってこれを推すに、福井辺の人、広く古学を修め、つとに勤王の志を抱く。松平春岳挙げて和歌の師とす、推奨最つとむ。しかれども赤貧洗うがごとく常に陋屋の中に住んで世と容れ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・くちばしならきっと磁石にかかるよ。」「楊の木に磁石があるのだろうか。」「磁石だ。」 風がどうっとやって来ました。するといままで青かった楊の木が、俄かにさっと灰いろになり、その葉はみんなブリキでできているように変ってしまいました。・・・ 宮沢賢治 「鳥をとるやなぎ」
・・・トルコ人たちは脚が長いし、背嚢を背負って、まるで磁石に引かれた砂鉄とい〔以下原稿数枚なし〕そうにあたりの風物をながめながら、三人や五人ずつ、ステッキをひいているのでした。婦人たちも大分ありました。又支那人かと思われる顔の黄いろな人と・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・「だけれどねえ、それではわたしが気が済まないんだよ。そうだ、あなたは鎖はいらないの。」 わたくしは時計の鎖なら、なくても済むと思いながら銀の鎖をはずしました。「いいや。」「磁石もついてるよ。」 すると子どもは顔をぱっと熱・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
出典:青空文庫