・・・ 恵蓮はいくら叱られても、じっと俯向いたまま黙っていました。「よくお聞きよ。今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺いを立てるんだからね、そのつもりでいるんだよ」 女の子はまっ黒な婆さんの顔へ、悲しそうな眼を挙げました。「今夜です・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・そして何事もずばずばとは言い切らないで、じっとひとりで胸の中に湛えているような性情にある憐れみさえを感じているのだ。彼はそうした気持ちが父から直接に彼の心の中に流れこむのを覚えた。彼ももどかしく不愉快だった。しかし父と彼との間隔があまりに隔・・・ 有島武郎 「親子」
・・・それでじっと我慢する。「そりゃあ己だって無論好い心持はしないさ。しかしみんながそんな気になったら、それこそ人殺しや犯罪者が気楽で好かろうよ。どっちかに極めなくちゃあならないのだ。公民たるこっちとらが社会の安全を謀るか、それとも構わずに打・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・やがてその暗の中に、自分の眼の暗さに慣れてくるのをじっと待っているような状態も過ぎた。 そうして今、まったく異なった心持から、自分の経てきた道筋を考えると、そこにいろいろいいたいことがあるように思われる。 ~~~~~~~~~~・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ 聞澄して、里見夫人、裳を前へ捌こうとすると、うっかりした褄がかかって、引留められたようによろめいたが、衣裄に手をかけ、四辺をみまわし、向うの押入をじっと見る、瞼に颯と薄紅梅。 九 煙草盆、枕、火鉢、座蒲団も・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・お光さんはじっとふたりの子どもを見つめるようすであったが、「私は子どもさえあれば何がなくてもよいと思います。それゃ男の方は子がないとて平気でいられましょうけれど、女はそうはゆきませんよ」「あなたはそんなことでいまだに気もみをしている・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・灰色の、じっとして動かぬ大空の下の暗い草原、それから白い水潦、それから側のひょろひょろした白樺の木などである。白樺の木の葉は、この出来事をこわがっているように、風を受けて囁き始めた。 女房は夢の醒めたように、堅い拳銃を地に投げて、着物の・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・一つの事実をじっと凝視するという事は、即ち凝視そのものが私はある意味で愛そのものだと云い得ると思う。この意味から自分の敵に対しても凝視を怠ってはならぬ。 私一個の考から云えば、人を愛するという事も、憎むという事も同じである。憎み切ってし・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・私はじっとそれを見送っていたが、その提灯の影も見えなくなり、その車の音も聞えなくなってしまうと、きゅうにたまらなく寂しくなった。そこで駈けだすようにして、車夫に教わったその横町へ入ると、なるほど山本屋という軒行灯が目に入った。 貝殻を敷・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ じっと横たわっていると、何か不安定な気がして来た。考えてみると、どうも枕元と襖の間が広すぎるようだった。ふだん枕元に、スタンドや灰皿や紅茶茶碗や書物、原稿用紙などをごてごてと一杯散らかして、本箱や机や火鉢などに取りかこまれた蒲団のなか・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫