・・・ しかるに重体の死に瀕した一日、橘之助が一輪ざしに菊の花を活けたのを枕頭に引寄せて、かつてやんごとなき某侯爵夫人から領したという、浅緑と名のある名香を、お縫の手で焚いてもらい、天井から釣した氷嚢を取除けて、空気枕に仰向けに寝た、素顔は舞・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 途端に…… ざっざっと、あの続いた渦が、一ツずつ数万の蛾の群ったような、一人の人の形になって、縦隊一列に入って来ました。雪で束ねたようですが、いずれも演習行軍の装して、真先なのは刀を取って、ぴたりと胸にあてている。それが長靴を高く・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・ ペンを取ると、何の渋滞もなく瞬く間に五枚進み、他愛もなく調子に乗っていたが、それがふと悲しかった。調子に乗っているのは、自家薬籠中の人物を処女作以来の書き馴れたスタイルで書いているからであろう。自身放浪的な境遇に育って来た私は、処女作・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ ところが、ちょうどそこへ医者が見舞ってきて、お定の脈を見ながら、ご親戚の方が集っておられるようだが、まだまだそんな重態ではござらんと笑ったあと、近ごろ何かおもしろい話はござらぬか。そう言って自分から語りだしたのは、近ごろ京の町に見た人・・・ 織田作之助 「螢」
・・・……なんてこった、敵前でぼんやり腹を見せて縦隊行進をするなんて!」絶望せぬばかりに副官が云った。「中隊を止めて、方向転換をやらせましょうか。」 しかし、その瞬間、パッと煙が上った。そして程近いところから発射の音がひびいた。「お―・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・妹は重態なのだ。しかし、女房が見舞いに行けば、私は子供のお守りをしていなければならぬ。「だから、ひとを雇って、……」 言いかけて、私は、よした。女房の身内のひとの事に少しでも、ふれると、ひどく二人の気持がややこしくなる。 生きる・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・そうして、故郷の母が重態だという事を言って聞かせた。五、六年のうちには、このような知らせを必ず耳にするであろうと、内心、予期していた事であったが、こんなに早く来るとは思わなかった。昨年の夏、北さんに連れられてほとんど十年振りに故郷の生家を訪・・・ 太宰治 「故郷」
・・・二月のはじめに御発熱があり、六日の夜から重態にならせられ、十日にはほとんど御危篤と拝せられましたが、その頃が峠で、それからは謂わば薄紙をはがすようにだんだんと御悩も軽くなってまいりました。忘れもしませぬ、二十三日の午剋、尼御台さまは御台所さ・・・ 太宰治 「鉄面皮」
東京は、いま、働く少女で一ぱいです。朝夕、工場の行き帰り、少女たちは二列縦隊に並んで産業戦士の歌を合唱しながら東京の街を行進します。ほとんどもう、男の子と同じ服装をしています。でも、下駄の鼻緒が赤くて、その一点にだけ、女の・・・ 太宰治 「東京だより」
・・・ ざッざッざッという軍靴の響きと共に、君たち幹部候補生二百名くらいが四列縦隊で改札口へやって来た。僕は改札口の傍で爪先き立ち、君を捜した。君が僕を見つけたのと、僕が君を見つけたのと、ほとんど同時くらいであったようだ。「や。」「や・・・ 太宰治 「未帰還の友に」
出典:青空文庫