・・・ 遠藤はこう言いながら、上衣の隠しに手を入れると、一挺のピストルを引き出しました。「この近所にいらっしゃりはしないか? 香港の警察署の調べた所じゃ、御嬢さんを攫ったのは、印度人らしいということだったが、――隠し立てをすると為にならん・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・男は確かに砂埃りにまみれたぼろぼろの上衣を着用している。常子はこの男の姿にほとんど恐怖に近いものを感じた。「何か御用でございますか?」 男は何とも返事をせずに髪の長い頭を垂れている。常子はその姿を透かして見ながら、もう一度恐る恐る繰・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・が、やがて手近の卓子の上へ、その雑誌をばたりと抛ると、大事そうに上衣の隠しから、一枚の写真をとり出した。そうしてそれを眺めながら、蒼白い頬にいつまでも、幸福らしい微笑を浮べていた。 写真は陳彩の妻の房子が、桃割れに結った半身であった。・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・「彼の上衣は紫である。そうして腰まで、ボタンがかかっている。ズボンも同じ色で、やはり見た所古くはないらしい。靴下はまっ白であるが、リンネルか、毛織りか、見当がつかなかった。それから髯も髪も、両方とも白い。手には白い杖を持っていた。」――これ・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・沢本 おうい、ドモ又……と、あの、貴様のその上衣をよこせ、貴様の兄貴に着せるんだから。その代わりこれを着ろ……ともちゃん花が取れたかい。それか。それをおくれ、棺を飾るんだから……沢本退場。……戸部ととも子寄り添わんとす。別・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・さて黒の上衣を着る。髯を綺麗に剃った顋の所の人と違っている顔が殊更に引き立って見える。食堂へ出て来る。 奥さんは遠慮らしく夫の顔を一寸見て、すぐに横を向いて、珈琲の支度が忙しいというような振をする。フレンチが一昨日も昨日も感じていて、友・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ と一口がぶりと遣って、悵然として仰反るばかりに星を仰ぎ、頭髪を、ふらりと掉って、ぶらぶらと地へ吐き、立直ると胸を張って、これも白衣の上衣兜から、綺麗な手巾を出して、口のまわりを拭いて、ト恍惚とする。「爽かに清き事、」 と黄色い・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・しかし「スタンダールやバルザックの文学は結局こしらえものであり、心境小説としての日本の私小説こそ純粋小説であり、詩と共に本格小説の上位に立つものである」という定説が権威を持っている文壇の偏見は私を毒し、それに、翻訳の文章を読んだだけでは日本・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・作業服のように上衣とズボンが一つになっていて、真中には首から股のあたりまでチャックがついている。二つに割れる仕掛になっているのかと私は思わず噴き出そうとした途端、げっと反吐がこみあげて来た。あわてて口を押え、「食塩水……」をくれと情ない・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ はいろうとした途端、中から出て来た一人の男がどすんと豹吉に突き当りざまに豹吉の上衣のかくしへ手を入れようとした。「間抜けめ!」 低いが、豹吉の声は鋭かった。 男はあっと自分の手首を押えた。血が流れていたのだ。 鋭利な刃・・・ 織田作之助 「夜光虫」
出典:青空文庫