・・・「これは水気が来ておりますから、……綿を含ませたせいもあるのでございましょう。」――奥さんは僕にこういった。 滝田君についてはこの外に語りたいこともない訳ではない。しかし匆卒の間にも語ることの出来るのはこれだけである。・・・ 芥川竜之介 「滝田哲太郎君」
・・・右へ外して、菓子折、サイダア、砂糖袋、玉子の折などの到来物が、ずらりと並んでいる箪笥の下に、大柄な、切髪の、鼻が低い、口の大きな、青ん膨れに膨れた婆が、黒地の単衣の襟を抜いて、睫毛の疎な目をつぶって、水気の来たような指を組んで、魍魎のごとく・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・林はまだ夏の緑のそのままでありながら空模様が夏とまったく変わってきて雨雲の南風につれて武蔵野の空低くしきりに雨を送るその晴間には日の光水気を帯びてかなたの林に落ちこなたの杜にかがやく。自分はしばしば思った、こんな日に武蔵野を大観することがで・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・っていたが、しまいには、のどがかわいて目がくらみそうになる、そのうちに、たまたま、水見たいなものが手にさわったので、それへ口をつけて、むちゅうでぐいぐい飲んだまではおぼえているが、あとで考えると、その水気というのは、人の小便か、焼け死んだ死・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・こころみにそのひとつをちぎりとり歯にあてると、果実の肉がはち切れるほど水気を持っていることとて歯をあてたとたんにぽんと音高く割れ冷い水がほとばしり出て鼻から頬までびしょ濡れにしてしまうほどであった。あくるとしの元旦には、もっとめでたいことが・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・ 厚くしかれた河原の青葦は、むんむんと水気を蒸発させ、葦が乾いて段々枯れてゆくきつい香りを放散させ、わたしは目がくらみそうだった。それでも八月の二十日すぎて東京へかえるとき「古き小画」は出来あがった。「古き小画」は宮原晃一郎氏を通じ・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
ねばねばした水気の多い風と、横ざまに降る居ぎたない雨がちゃんぽんに、荒れ廻って居る。 はてからはてまで、灰色な雲の閉じた空の下で、散りかかったダリアだの色のさめた紫陽花が、ざわざわ、ざわざわとゆすれて居るのを見て居ると・・・ 宮本百合子 「雨の日」
・・・今も恐るべき単調さで降りしきって居る雨が晴れたら、地上はきっともう秋に成って居りますでしょう、雨が好きな私も、毎日毎日同じ水気と灰色とで溺れたような景物を眺め暮すのは、少し飽き飽きした心持が致します。―― C先生。 もう三時間許り前・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・まっくらな土の香の高い水気の多い土面の下の中に一寸出て居る乳色の芽生えを想像して私は土上に出た芽生えに向けるような喜のみちた希望のあるほほ笑みを黒土の上になげて居た。 私は若しやあの暗い中で乳色の糸のような芽生がそのまま朽ちてるんじゃあ・・・ 宮本百合子 「つぼみ」
・・・自分が裸体だなどということはまるで忘れて、水気が一どきに乾こうとする寒さで、歯の根も合わずガタガタ震えながら、それでもひるまない禰宜様宮田は、若者の上に跨がるようにして、 ウムッ! ウムッ!と満身の力をこめて擦っている。 青ざめ・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
出典:青空文庫