・・・いろ御馳走になったお礼や、その後一度伺おう伺おうと思いながら、手前にかまけてつい御無沙汰をしているお詫びなど述べ終るのを待って、媼さんは洋銀の細口の煙管をポンと払き、煙をフッと通して、気忙しそうに膝を進める。「実はね、お光さん、今日わざ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・そしてもう一歩想像を進めるならば、月が少し西へ傾きはじめた頃と思います。もしそうとすればK君のいわゆる一尺ないし二尺の影は北側といってもやや東に偏した方向に落ちるわけで、K君はその影を追いながら海岸線を斜に海へ歩み入ったことになります。・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・それもたって勧めるではなく、彼の癖として少し顔を赤らめて、もじもじして、丁寧に一言「行きませんか」と言ったのです。 私はいやと言うことができないどころでなく、うれしいような気がして、すぐ同意しました。 雪がちらつく晩でした。 木・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ 昨夜磯吉が飛出した後でお源は色々に思い難んだ末が、亭主に精出せと勧める以上、自分も気を腐らして寝ていちゃ何もならない、又たお隣へも顔を出さんと却て疑がわれるとこう考えたのである。 其処で平常の通り弁当持たせて磯吉を出してやり、自分・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・しかもそれにもかかわらず私は勧める。夢多く持て、若き日の感激を失うな。ものごとを物的に考えすぎるな。それは今の諸君の環境でも可能なことであると。私は学生への同情の形で、その平板と無感激とをジャスチファイせんとする多くの学生論、青年論の唯物的・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・だがひとたび不幸にしてその女性としての、本質を汚した女性、媚を売る習慣の中に生きた女性を、まだ二十五歳以下の青年学生の清き青春のパートナーとして、私は薦めることのできないものである。 彼女たちにはまた相応しき相手があるであろう。 い・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・川音と話声と混るので甚く聞き辛くはあるが、話の中に自分の名が聞えたので、おのずと聞き逸すまいと思って耳を立てて聞くと、「なあ甲助、どうせ養子をするほども無い財産だから、嚊が勧める嚊の甥なんぞの気心も知れねえ奴を入れるよりは、怜悧で天賦の良い・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・「姉さんはそういうけれど、私の勧めるのは養生園ですよ。根岸の病院なぞとは、病院が違います。そんなに悪くない人が養生のために行くところなんですから、姉さんには丁度好かろうかと思うんです。今日は私も行って見て来ました。まるで普通の家でした。・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・槍を歩のように一つずつ進める。」「井伏の小説は、決して攻めない。巻き込む。吸い込む。遠心力よりも求心力が強い。」「井伏の小説は、泣かせない。読者が泣こうとすると、ふっと切る。」「井伏の小説は、実に、逃げ足が早い。」 また、或・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・八方ふさがり、と言ってしまうと、これもウソなのである。進める。生きておれる。真暗闇でも、一寸さきだけは、見えている。一寸だけ、進む。危険はない。一寸ずつ進んでいるぶんには、間違いないのだ。これは、絶対に確実のように思われる。けれども、――ど・・・ 太宰治 「八十八夜」
出典:青空文庫