・・・そこで達雄に愛されていることをすっかり夫に打ち明けるのです。もっとも夫を苦しめないように、彼女も達雄を愛していることだけは告白せずにしまうのですが。 主筆 それから決闘にでもなるのですか? 保吉 いや、ただ夫は達雄の来た時に冷かに訪・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・そして今年になって、農場がようやく成墾したので、明日は矢部もこの農場に出向いて来て、すっかり精算をしようというわけになっているのだ。明日の授受が済むまでは、縦令永年見慣れて来た早田でも、事業のうえ、競争者の手先と思わなければならぬという意識・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 処刑をする広間はもうすっかり明るくなっている。格子のある高い窓から、灰色の朝の明りが冷たい床の上に落ちている。一間は這入って来た人に冷やかな、不愉快な印象を与える。鼠色に塗った壁に沿うて、黒い椅子が一列に据えてある。フレンチの目を射た・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・「謹さん、沸しましょうかね。」と軽くいう。「すっかり忘れていた、お庇さまで火もよく起ったのに。」「お湯があるかしら。」 と引っ立てて、蓋を取って、燈の方に傾けながら、「貴下。ちょいと、その水差しを。お道具は揃ったけれど、・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 省作は足腰の疲れも、すっかり忘れてしまい、活気を全身にたたえて、皆の働いてる表へ出て来た。 二「省作お前は鎌をとぐんだ。朝前のうちに四挺だけといでしまっておかねじゃなんねい。さっきあんなに呼ばったに、どこにいた・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・すると、へやの中のようすは、これまでとはすっかり変わっていました。もっと美しく、もっときれいに、もっと珍しいものばかりで飾られているばかりでなく、三人の娘らのほかに、見慣れない年若い紳士が四、五人もいました。それらの男は、楽器を鳴らしたり、・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・秋ももう深けて、木葉もメッキリ黄ばんだ十月の末、二日路の山越えをして、そこの国外れの海に臨んだ古い港町に入った時には、私は少しばかりの旅費もすっかり払きつくしてしまった。町へ着くには着いても、今夜からもう宿を取るべき宿銭もない。いや、午飯を・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 爺さんは金をすっかり集めてしまうと、さっきの箱の側へ行って、その上を二つ三つコンコンと叩きました。「坊主。坊主。早く出て来て、お客様方にお礼を申し上げないか。」 爺さんがこう言いますと、箱の中でコトンという音がしました。 ・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・ もうひとつ、私の部屋の雨戸をあけるとすれば、当然隣りの部屋もそうしなくてはならない。それ故、一応隣室の諒解を求める必要がある。けれど、隣室の人たちはたぶん雨戸をあけるのを好まないだろう。 すっかり心が重くなってしまった。 夕暮・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・所がそのうち、二度三度と来るうちに、三百の口調態度がすっかり変って来ていた。そして彼は三百の云うなりになって、八月十日限りといういろ/\な条件附きの証書をも書かされたのであった。そして無理算段をしては、細君を遠い郷里の実家へ金策に発たしてや・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫