・・・どの子もどの子も手を出して摩るのだ。摩られる度に、犬はびくびくした。この犬のためにはまだ摩られるのが、打たれるように苦痛なのであった。 次第にクサカの心持が優しくなった。「クサカ」と名を呼ばれる度に何の心配もなく庭に走り出るようになった・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ はッと縁側に腰をかけた、女房は草履の踵を、清くこぼれた褄にかけ、片手を背後に、あらぬ空を視めながら、俯向き通しの疲れもあった、頻に胸を撫擦る。「姉さんも弱虫だなあ。東京から来て大尽のお邸に、褄を引摺っていたんだから駄目だ、意気地は・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 源助、宮浜の児を遣ったあとで、天窓を引抱えて、こう、風の音を忘れるように沈と考えると、ひょい、と火を磨るばかりに、目に赤く映ったのが、これなんだ。」 と両手で控帳の端を取って、斜めに見せると、楷書で細字に認めたのが、輝くごとく・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・と口も気もともに軽い、が、起居が石臼を引摺るように、どしどしする。――ああ、無理はない、脚気がある。夜あかしはしても、朝湯には行けないのである。「可厭ですことねえ。」 と、婀娜な目で、襖際から覗くように、友染の裾を曳いた櫛巻の立姿。・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 手を洗って、ガタン、トンと、土間穿の庭下駄を引摺る時、閉めて出た障子が廊下からすッと開いたので、客はもう一度ハッとした。 と小がくれて、その中年増がそこに立つ。「これは憚り……」「いいえ。」 と、もう縞の小袖をしゃんと・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・……嫁御はなるほど、わけしりの弟分の膝に縋って泣きたいこともありましたろうし、芸妓でしくじるほどの画師さんでございます、背中を擦るぐらいはしかねますまい、……でございますな。 代官婆の憤り方をお察しなさりとう存じます。学士先生は電報で呼・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・まさか持ったなりでは行くまいと、半ば串戯だったのに――しかし、停車場を出ると、見通しの細い道を、いま教授がのせたなりに、ただ袖に手を掛けたばかり、長い外套の裾をずるずると地に曳摺るのを、そのままで、不思議に、しょんぼりと帰って行くのを見て、・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・呼吸を殺して従い行くに、阿房はさりとも知らざる状にて、殆ど足を曳摺る如く杖に縋りて歩行み行けり。 人里を出離れつ。北の方角に進むことおよそ二町ばかりにて、山尽きて、谷となる。ここ嶮峻なる絶壁にて、勾配の急なることあたかも一帯の壁に似たり・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・とある其事である(約翰、単に神の子たるの名称を賜わる事ではない、実質的に神の子と為る事である、即ち潔められたる霊に復活体を着せられて光の子として神の前に立つ事である、而して此事たる現世に於て行さるる事に非ずしてキリストが再び現われ給う時に来・・・ 内村鑑三 「聖書の読方」
・・・ 新調の羽織を着て、小さな身体に袴を引摺るように穿いた笹川は、やはり後ろに手を組んだまま、深く頭を垂れてテーブルと暗い窓の間を静かに歩いていた。 明いていた入口から、コックや女中たちの顔が、かわるがわる覗きこんだ。若い法学士はという・・・ 葛西善蔵 「遁走」
出典:青空文庫