・・・かつて筆者が不精で顋鬚を剃るのを怠っているのを見付けた時「あごひげなんか延ばして大家になっちゃ駄目だぞ」と云った事を記憶する。この辛辣にして愉快なる三十棒の響きは今にして筆者の耳に新たなるものがある。ちなみに君は生涯髭を蓄えず頭も五分刈であ・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・ マレイ語で頭髪を剃るのは chukor であり女の髪を剃るのが tokong である。また蘭領インドでは「店」が toko である。 マレイの理髪師は tukang chukor また tukang gunting である。 ・・・ 寺田寅彦 「言葉の不思議」
・・・その実を採って、わたしは草稿の罫紙を摺る顔料となすからである。梔子の実の赤く熟して裂け破れんとする時はその年の冬も至日に近い時節になるのである。傾きやすき冬日の庭に塒を急ぐ小禽の声を聞きつつ梔子の実を摘み、寒夜孤燈の下に凍ゆる手先を焙りなが・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・「わが冠の肉に喰い入るばかり焼けて、頭の上に衣擦る如き音を聞くとき、この黄金の蛇はわが髪を繞りて動き出す。頭は君の方へ、尾はわが胸のあたりに。波の如くに延びるよと見る間に、君とわれは腥さき縄にて、断つべくもあらぬまでに纏わるる。中四尺を・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・髯を剃るといいと露子が云ったのだが全体の髯の事か顋髯だけかわからない。まあ鼻の下だけは残す事にしようと一人できめる。職人が残しましょうかと念を押すくらいだから、残したって余り目立つほどのものでもないにはきまっている。「源さん、世の中にゃ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 圭さんは何にも云わずに一生懸命にぐいぐい擦る。擦っては時々、手拭を温泉に漬けて、充分水を含ませる。含ませるたんびに、碌さんの顔へ、汗と膏と垢と温泉の交ったものが十五六滴ずつ飛んで来る。「こいつは降参だ。ちょっと失敬して、流しの方へ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・むやみに人生だ人生だと騒いでも、何が人生だか御説明にならん以上は、火の見えないのに半鐘を擦るようなもので、ちょっと景気はいいようだが、どいたどいたと駆けて行く連中は、あとから大に迷惑致すだろうと察せられます。人生に触れろと御注文が出る前に、・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・毎朝髭を剃るんでね、安全髪剃を革砥へかけて磨ぐのだよ。今でもやってる。嘘だと思うなら来て御覧」 看護婦はただへええと云った。だんだん聞いて見ると、○○さんと云う患者は、ひどくその革砥の音を気にして、あれは何の音だ何の音だと看護婦に質問し・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・只弓を擦る右の手が糸に沿うてゆるく揺く。頭を纏う、糸に貫いた真珠の飾りが、湛然たる水の底に明星程の光を放つ。黒き眼の黒き髪の女である。クララとは似ても似つかぬ。女はやがて歌い出す。「岩の上なる我がまことか、水の下なる影がまことか」 ・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・海の底に足がついて、世に疎きまで思い入るとき、何処よりか、微かなる糸を馬の尾で摩る様な響が聞える。睡るウィリアムは眼を開いてあたりを見廻す。ここは何処とも分らぬが、目の届く限りは一面の林である。林とは云え、枝を交えて高き日を遮ぎる一抱え二抱・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫