・・・あなたに面罵せられて、はじめて私は、正気になりました。自分の馬鹿を知りました。わかい研究生たちが、どんなに私の絵を褒めても、それは皆あさはかなお世辞で、かげでは舌を出しているのだという事に気がつきました。けれどもその時には、もう、私の生活が・・・ 太宰治 「水仙」
・・・佐竹は立ったまま、老人のように生気のない声でぼそぼそ私に話しかけたのである。「あんたのことを馬場から聞きましたよ。ひどいめに遭ったものですねえ。なかなかやると思っていますよ」私はむっとして、佐竹のまぶしいほど白い顔をもいちど見直した。箱・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・ 殴らなくちゃいけねえ。正気にかえるまで殴らなくちゃいけねえ。数枝、振り向きもせず、泣き叫ぶ睦子を抱いて、階段をのぼりはじめる。和服の裾から白いストッキングをはいているのが見える。伝兵衛、あがく。あさ、必死にとどめる。・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・ 部屋へあがって、座ぶとんに膝を折って正坐し、「私は、正気ですよ。正気ですよ。いいですか? 信じますか?」 とにこりともせず、そう言った。 はてな? とも思ったが、私は笑って、「なんですか? どうしたのです。あぐらになさ・・・ 太宰治 「女神」
・・・すべての遊戯にインポテンスになった私には、全く生気を欠いた自叙伝をぼそぼそ書いて行くよりほかに、路がないであろう。旅人よ、この路を避けて通れ。これは、確実にむなしい、路なのだから、と審判という燈台は、この世ならず厳粛に語るだろう。けれども、・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・その代りになるべき新しい利器を求めている彼の手に触れたのは、前世紀の中頃に数学者リーマンが、そのような応用とは何の関係もなしに純粋な数学上の理論的の仕事として残しておいた遺物であった。これを錬え直して造った新しい鋭利なメスで、数千年来人間の・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・あたかも沸き上がり燃え上がる大地の精気が空へ空へと集注して天上ワルハラの殿堂に流れ込んでいるような感じを与える。同じようではあるが「全線」の巻頭に現われるあの平野とその上を静かに流れる雲の影のシーンには、言い知らぬ荒涼の趣があり慰めのない憂・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・二十世紀のフランスにもまだこんな昔の田舎が保存されているかと思うと実にうらやましい気がした。コローやドービニーなどの風景画がそっくり抜け出して来たように思われてうれしかった。日本ではおそらくこんな所はめったに見られないであろう。そういう田舎・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・そのほかにはたいしておもしろいと思うところもなかったが、ただなんとなしに十九世紀の中ごろの西洋はこんなだったかと思わせるようなものがあって、その時代の雰囲気のようなものだけが漠然とした印象となって頭に残っている。ナナの二人の友だちの服装やア・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・実際はやはり普通の講義や演習から非常なお蔭を蒙っていることは勿論であって、もしか当時そういう正規の教程を怠けてしまっていたらおそらく卒業後の学究生活の第一歩を踏出す力さえなかったに相違ない。講義も演習もいわば全く米の飯のようなもので、これな・・・ 寺田寅彦 「科学に志す人へ」
出典:青空文庫