・・・女は夫や子供の死後、情深い運送屋主人夫婦の勧め通り、達者な針仕事を人に教えて、つつましいながらも苦しくない生計を立てていたのです。」 客は長い話を終ると、膝の前の茶碗をとり上げた。が、それに唇は当てず、私の顔へ眼をやって、静にこうつけ加・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・――親仁が、生計の苦しさから、今夜こそは、どうでも獲ものをと、しとぎ餅で山の神を祈って出ました。玉味噌を塗って、串にさして焼いて持ちます、その握飯には、魔が寄ると申します。がりがり橋という、その土橋にかかりますと、お艶様の方では人が来るのを・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ているのだが、本当は大きな椀に盛って一つだけ持って来るよりも、そうして二杯もって来る方が分量が多く見えるというところをねらった、大阪人の商売上手かも知れないが、明治初年に文楽の三味線引きが本職だけでは生計が立たず、ぜんざい屋を経営して「めを・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・その代り俺の方で惣治からの仕送りを断るから、それでお前は別に生計を立てることにしたがいいだろう。とにかくいっしょにいるという考えはよくない」 気のいい老父は、よかれ悪かれ三人の父親である耕吉の、泣いて弁解めいたことを言ってるのに哀れを催・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・適当の収入さえあれば、夫への心をこめた奉仕と、子どもの懇ろなる養育と、家庭内の労働と団欒とを欲する婦人が生計の不足のためにやむなく子供を託児所にあずけて、夫とともに家庭を留守にして働くのである。婦人には月々の生理週間と妊娠と分娩後の静養と哺・・・ 倉田百三 「婦人と職業」
・・・ 問題が解決するまで、これからなお一年かゝるか二年かゝるか分らないが、それまでともかく豚で生計を立てねばならなかった。豚と云っても馬鹿にはならない。三十貫の豚が一匹あればツブシに売って、一家が一カ月食って行く糧が出るのだ。 こゝ半年・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・でも、私はあの山の上から東京へ出て来て見るたびに、とにもかくにも出版業者がそれぞれの店を構え、店員を使って、相応な生計を営んで行くのにその原料を提供する著作者が――少数の例外はあるにもせよ――食うや食わずにいる法はないと考えた。私が全くの著・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・に、さし画でもカットでも何でも描かせてほしいと顔を赤らめ、おどおどしながら申し出たのを可愛く思い、わずかずつ彼女の生計を助けてやる事にしたのである。物腰がやわらかで、無口で、そうして、ひどい泣き虫の女であった。けれども、吠え狂うような、はし・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・何とかして窮迫した生計の血路をひらかなければいけない。 私は或る出版社から旅費をもらい、津軽旅行を企てた。その頃日本では、南方へ南方へと、皆の関心がもっぱらその方面にばかり集中せられていたのであるが、私はその正反対の本州の北端に向って旅・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・田舎に少しばかりの田地があるから、それを生計のしろとして慰みに花でも作り、余裕があれば好きな本でも買って読む。朝一遍田を見廻って、帰ると宅の温かい牛乳がのめるし、読書に飽きたら花に水でもやってピアノでも鳴らす。誰れに恐れる事も諛う事も入らぬ・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
出典:青空文庫