外はしとしとと茅葦には音もなく小雨がして居る。 千世子は何だか重い考える事のありそうな気持になってうるんだ様な木の葉の色や花の輝きをわけもなく見て居た。ピショ! ピショ! と落ちる雨だれの音を五月蠅く思い・・・ 宮本百合子 「千世子(二)」
・・・ 坪内先生の日本の文学における業績については私が敢て云うを俟たないものであるが、先生と私一箇との間に在った歴史的時間の内容は日本の明治大正史が語るよう極めて豊富であって、年齢の差以上のものがあったことはまことに興味あることであったと思う・・・ 宮本百合子 「坪内先生について」
・・・よその経営に働く婦人たちは自分たちの境遇のつまりのところは、日本の製糸工場で同性たちが受けている待遇とつながったものであるという現実に対して、実に無智であった。自分たちの居場処や服装が糸取りをして働いている同性たちと違っているということだけ・・・ 宮本百合子 「働く婦人の歌声」
・・・ための政見を発表し、しかも時々バルザックは一八二五年の破局にもこりず熱病にかかったように大仕掛の企業欲にとりつかれ、サルジニアの銀鉱採掘事業や、或る地勢を利用して十万のパイナップル栽培計画を立て、新式製紙術の研究にまで奔走したのである。実に・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
・・・樺太の製紙会社につとめている父親や、引上げて来た母親、子供たちの様子をきいたりして夕飯のしたくが終ったとき、敷石の上を来る重吉の靴音がきこえた。 ひろ子は、上り口へかけて出て行った。「おかえりなさい」 重吉は黙って、踵と踵をこす・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・ 製糸女工さんの賃銀は日に十二銭です。ガスよけマスク、飛行機、爆弾、そういうものを拵えてしこたま儲けている工場がどんなひとの使いようをするかといえば、臨時雇いで、しかも給料のやすいおとなしい女ばかりを多く雇う。一日十一時間半も働かす。・・・ 宮本百合子 「婦人読者よ通信員になれ」
・・・ 自分はそれを見、正視するに耐えなかった。眼を逸し、さりげなく「安積から来た柿?」と、まつに話しかけた。「そうでございます。俵に一俵も来ましたの」 母は、黙って食堂に戻って行かれた。暫くして、自分も行く。―― 祖母が・・・ 宮本百合子 「二つの家を繋ぐ回想」
町から、何処に居ても山が見える。その山には三月の雪があった。――山の下の小さい町々の通りは、雪溶けの上へ五色の千代紙を剪りこまざいて散らしたようであった。製糸工場が休みで、数百の若い工女がその日は寄宿舎から町へぶちまけられ・・・ 宮本百合子 「町の展望」
・・・ 千世子のどうしようもないかんしゃくを、嘲笑う様にあさぎのかみはヘラヘラヘラとひるがえってペッタリとはりつくかと思うと、パカンと口をあいて千世子の心をいじめぬいたあげくだらんと下ってそのまんま死んだ様に動かなくなった。 私はそれを目・・・ 宮本百合子 「芽生」
・・・不条理を喋るまいとする人々は沈黙させられるか、自発的に沈黙するしかなかったし、沈黙している人々は、めいめいの沈黙の座の上に静止していた。かつては、そのような思想のある静止状態が「東洋風」とよばれた時代もあった。だが、一九四〇年代に、そのよう・・・ 宮本百合子 「私の信条」
出典:青空文庫