・・・ちょうど、夏川の水から生まれる黒蜻蛉の羽のような、おののきやすい少年の心は、そのたびに新たな驚異の眸を見はらずにはいられないのである。ことに夜網の船の舷に倚って、音もなく流れる、黒い川をみつめながら、夜と水との中に漂う「死」の呼吸を感じた時・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・ 私は遠慮なく葉巻を一本取って、燐寸の火をうつしながら、「確かあなたの御使いになる精霊は、ジンとかいう名前でしたね。するとこれから私が拝見する魔術と言うのも、そのジンの力を借りてなさるのですか。」 ミスラ君は自分も葉巻へ火をつけ・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・それならどうして、この文明の日光に照らされた東京にも、平常は夢の中にのみ跳梁する精霊たちの秘密な力が、時と場合とでアウエルバッハの窖のような不思議を現じないと云えましょう。時と場合どころではありません。私に云わせれば、あなたの御注意次第で、・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・「神、その独子、聖霊及び基督の御弟子の頭なる法皇の御許によって、末世の罪人、神の召によって人を喜ばす軽業師なるフランシスが善良なアッシジの市民に告げる。フランシスは今日教友のレオに堂母で説教するようにといった。レオは神を語るだけの弁才を・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・その草の中を、あたかも、ひらひら、と、ものの現のように、いま生れたらしい蜻蛉が、群青の絹糸に、薄浅葱の結び玉を目にして、綾の白銀の羅を翼に縫い、ひらひら、と流の方へ、葉うつりを低くして、牡丹に誘われたように、道を伝った。 またあまりに儚・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・小児の時は、日盛に蜻蛉を釣ったと、炎天に打つかる気で、そのまま日盛を散歩した。 その気のついでに、……何となく、そこいら屋敷町の垣根を探してが見たかったのである。この名からして小児で可い。――私は大好きだ。スズメノエンドウ、スズメウリ、・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ 御歯黒蜻蛉が、鉄漿つけた女房の、微な夢の影らしく、ひらひらと一つ、葉ばかりの燕子花を伝って飛ぶのが、このあたりの御殿女中の逍遥した昔の幻を、寂しく描いて、都を出た日、遠く来た旅を思わせる。 すべて旧藩侯の庭園だ、と言うにつけても、・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・……いかがわしいが、生霊と札の立った就中小さな的に吹当てると、床板ががらりと転覆って、大松蕈を抱いた緋の褌のおかめが、とんぼ返りをして莞爾と飛出す、途端に、四方へ引張った綱が揺れて、鐘と太鼓がしだらでんで一斉にがんがらん、どんどと鳴って、そ・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・「先祖代々の諸精霊……願以此功徳無量壇波羅蜜。具足円満、平等利益――南無妙……此経難持、若暫持、我即歓喜……一切天人皆応供養。――」 チーン。「ありがとう存じます。」「はいはい。」「御苦労様でございました。」「はい。・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・竹のまばら垣に藤豆の花の紫がほかほかと咲いて、そこらをスラスラと飛交わす紅蜻蛉の羽から、……いや、その羽に乗って、糸遊、陽炎という光ある幻影が、春の闌なるごとく、浮いて遊ぶ。…… 一時間ばかり前の事。――樹島は背戸畑の崩れた、この日当り・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
出典:青空文庫